地震の恐怖

2014 年 9 月 17 日

筆者が育った時代は、「……大震災」と言えば、…のところには、関東が入るのが常で、それ以外は考えられませんでした。ところが、今の若い人たちには、そこに、「阪神・淡路」や「東日本」も入って当然なのでしょう。昨日、お昼過ぎに、突然地震の揺れに見舞われました。だいたい被害が発生するような地震の時は、「あっ、地震だ」と思うより、何が起こったのか、という捉えようのない恐怖感が先行するものだと、ものの本で読んだことがあります。昨日の揺れの初動は、その指摘に少し近かった感じでした。家のソファーでくつろいでいましたが、地震で揺れるテレビの筐体や、写真などを見て何もできないうちに、幸い揺れは収まってくれました。
東北大震災の時は、激しい揺れが長い時間続きました。いったん終息するのかとおもったところで再度揺れが強くなって、もう一度ヘルメットをかぶりなおした記憶があります。昨日の揺れは、ヘルメットをとりに行く前に終わる程度でしたから、小さな地震だったのでしょうが、それでも少しだけ恐怖感を覚えさせるものでした。近いうちに発生すると思われる、首都直下型地震や、東南海沖地震の時、どのように体験しどう対処できるものでしょうか。昨日の狼狽え方を思い出すと、どうも自信は持てません。
とくに、首都直下型地震の場合、どこに居るときに発生するかで、最初の判断の適正さが問われると考えています。公共交通機関に乗っている場合、高層ビルの間を歩いている場合、自宅でくつろいでいる場合、あるいは就寝中、など、どのようになるものでしょうか。ひとりひとり、それぞれにシミュレーションしておく必要があるのでしょう。
できることなら、体験しないまま浮世と別れたいと思うほど、昨日の揺れは、地震の恐怖の前では無抵抗になってしまう自分を思い知らせるものでした。

マスコミの役割

2014 年 9 月 15 日

最近大新聞の誤報が伝えられ、社長自ら会見してお詫びを告げる形となりました。この問題が重要性を持ってしまったのは、悪意に満ちた意図的な情報提供者の言葉に乗せられてしまったという点と、扱う対象が近隣諸国とのデリケートな過去であった点、にあると思います。さらに、誤った内容が、この新聞社の正義感をくすぐるものであったところにも問題があったのでしょう。
小さな誤報や、あるいは、極端な世論誘導などは、今回の事件だけではなく日常的に行われているのではないかと、筆者は考えています。ですから、マスコミであるなら、もっともっと検証の記事に力を入れるべきだと強く思っています。たとえば、わが国の首相がオリンピック招致を願うばかりに、「福島原発の放射能漏れの状態は、すべてコントロールできています」と国際的に啖呵を切ってしまいましたが、この発言は国民の感覚と微妙にずれたものでした。そのずれとは何なのか、発表されているこの3年半のデータを解析したり、汚染水タンクの現状と課題とを現地で取材してみれば、首相発言と国民の感覚とのずれの問題がはっきり見えてくるはずです。ところが、この地道な取材活動に基づいたマスコミの報道には、少なくとも筆者は触れる機会を持っていません。きわめて残念であり、情けないことだと感じています。戦時中のマスコミが大本営発表をうのみにして報じていたのと、現在と、どれほど違っているのでしょうか。
言い換えれば、この違いを発現させようとして、大新聞の誤報問題が出現してしまったとも考えられます。検証記事を載せるということは、それだけ厳しい課題ではあります。だからこそ、その厳しさをマスコミ自身がわきまえて、日々報道に励んでほしいものです。他社の落ち度に、それ見たことかとだけ報じている一般マスコミも、恥を知るべきです。

今年はもう熱中症は

2014 年 9 月 14 日

厳しい暑さの結果として、熱中症による救急車の出動件数が報じられることがありました。どうやら、そのような暑さは今年について言えばもう過ぎてくれたようです。今日の晴れは、暑さを呼ぶものではなく、さわやかな秋の気配を与えてくれました。この爽やかな秋空になる前、全国的に不安定な天気が続いて、一時間に100mmを超えるような強い雨が、各地で観測されました。たまたま、北海道へ行っていましたが、一日違いで無事戻れたものの、もう一日あとであったら、足止めを食らっていたかもしれません。今回の豪雨の特徴は、全国の各地で別々に降ったことでした。それも、狭い地域で降ったので、同じ県内でも自分がいるところでは雨さえ降らなかったことがありました。
幸い、人への被害はわずかで済みましたが、どこで発生するか事前に推定しにくい今回のような事態には、国民全体の防災意識の向上が求められるのでしょう。台風がまだ来襲する可能性はあります。自然災害と言えば、地震、火山など、考えれば尽きません。高齢化が進む中、災害弱者となる人の構成比が高まるだけに、地域としての防災体制を皆が理解していく必要があるようです。
今日の秋晴れは、とても心地よいものでした。災害をもたらさないこのような天気に恵まれることの幸せを十分味わいたいものです。もう少し経つと、紅葉シーズンが始まります。混雑を避けながら、季節を味わえる場所を探すつもりでいます。もちろん、被災者の方々がまだ震災の痛手の中にいることを忘れずに。

わが国農業の課題と求められる技術開発

2014 年 9 月 11 日

聞くともなしに聞いていたラジオ放送で、解説をする大学の名誉教授は、次のような論を立てていました。わが国の産業の中で、生産額全体で農業が占める割合は、年々落ち続けて、2%にも達していない水準になっている。一方、農業を担う人口も減少の一途をたどり、この傾向が続くなら近いうちに生産者がいなくなってしまう様相さえ見られている。だから、この窮状を救うには、農業用ロボットが必要です。という話題の持って行き方でした。
問題意識の入り口や、解決策の一部については異論はありません。しかし、もっと入り口の段階で考えなければならないことがあります。ひとつは、産業統計の数値をどう読み取るか、あるいは、農業自体が私たちの生活にどのような役割を果たしているのか、についての考えが不十分と感じました。食べ物を摂取して人が生きていくことは、単なるお金のやり取りの話だけではありません。本欄では、ひと月ほど前に、日本畜産の危機に触れました。TPP交渉の結果、わが国の畜産業は生き残れなくなってしまうのではないか、という恐れを伝えたものです。畜産製品が、海外からだけ輸入され、わが国の中で生産されなくなって、果たして望ましい食生活が保たれるものか、もっと国内全体で議論しなければいけないと感じます。それでも、マーケットの食品売り場では、「国産」を売り物にした商品の方が、すでに小さくなっている状態です。もちろん、自由市場で扱われている限り、安い製品が高い製品を追い出すことは、一つの当然の原理です。しかし、食品に関して、「安心・安全」がうたい文句に挙げられたり、床に落ちた肉が平然とまた加工ラインに乗せられていたという海外からの報道に接すると、顔が分かって信頼できる人から購入したい、という消費者の要望は捨てがたいものがあります。この要望と、自由市場の原理とを適切に調和させることができるか、考えなければなりません。
そこで、話を戻して、ロボット化の話ですが、その名誉教授は、「軍事で開発された技術を農業用機械に適用するのは難しい話ではありません」と簡単に決めつけていました。生産性とは全く別の指標で開発された軍事技術を農業に適用することは、あまり意味はありません。頭でっかちの都会にいるものの妄想です。これまでのロボット化の研究開発に対し、農家が語るのは、「収穫の喜びを奪うような部分だけをロボット化して、喜んでいる研究者を信用しない」というものです。作業を軽労化させる、農家のしもべになるロボットこそ求められているのです。その本当の要望と、研究者趣味的な研究課題との差をぜひ埋めることが、最初にまず必要なことなのです。

錦織選手の快挙をたたえて

2014 年 9 月 10 日

全米オープンテニスで錦織選手が、自分よりシードが上の選手を次々破って決勝まで進みました。決勝の相手とは、これまでの戦績では5勝2敗と優位であっただけに、マスコミは優勝をあおるような報道をしていましたが、結局は決勝戦は敗れて準優勝で終了しました。個人の戦いで、かつトーナメント方式ですから、勝ち上がれば上がるほど、身体への負荷は増していくはずです。毎回上位まで行く選手であれば、その経過は何回も経験したことがありますが、錦織選手の場合、初めての経験でした。そのことが決勝戦の戦いに表れてしまったのか、それとも、対戦相手のサービスがいつもより出来が良すぎたのか、詳しいことはスポーツ評論家に委ねることとしましょう。ただ、この勝ち上がりの中で、錦織選手が語った「どの選手と対しても、負けない自信が湧いてきた」というセリフは、スポーツにおいて世代交代が起きるときに、よく言われることでもあります。
自分の目の上のたんこぶのような選手がいるために、トップになれなかった選手が、ある日そのたんこぶに勝てる自信を持つようになれるのです。錦織選手は、今回の大会を通じて、その「下克上」の中に自分が置かれたことを実感したのだと思います。スポーツ選手にとって、そのような時を得られることはとても素晴らしいことなのです。今まで、常に上位にいて近づけなかった選手を、同等かそれ以下に見ることができる瞬間は、何より嬉しかったことでしょう。
ちょうど錦織選手の挑戦の日に、わが国のサッカーチームが海外のチームと戦う機会がありました。今度の監督の言うとおり、世界ランクでもっと上位に位置づけられるところに達することこそ、今求められていることです。新規にメンバーに加わった二人が得点を挙げて、その時代を到達させるのだと言わんばかりです。こちらにも、ぜひ期待したいと思っています。

偽りの話

2014 年 9 月 7 日

従軍慰安婦問題が問題視された時の報道の第一歩が、偽りの話に乗せられていたことが最近明らかにされました。その報道を最初に取り上げた新聞社が、犯したミスを伝えたからです。
この報道を見ると、以前偽メールを根拠に国会で相手を追及した挙句、入り口の話が虚偽であったと分かった結果、自死に追い込まれた国会議員のことが思い浮かびました。このような偽の話が出てくる背景には、偽であるかもしれないと疑うことより、もし事実だったら自身の普段からの主張が通りやすくなるであろう、という誘惑に取り込まれやすい「人」の弱さがあるように見えてなりません。
それよりも、一つの事実があったときに、二人以上の観察者がいれば、事実に対し述べられる話はきっと全く同じものにはならないでであろう、ということをまず知ることが肝要だということです。たいていの場合、観察した人の思いが記述の中に込められてしまいます。「客観的な」と言いながら、実は「主観的な」ことを述べてしまうのです。
事実とは何か、ということに謙虚に向うならば、歴史を総括することの困難さを改めて強く思います。まして、総括の仕方次第で近隣諸国との関係が、うまくいくか失敗するかの岐路に立たされるような問題に関しては、検証することの大切さも捨てられませんが、人は歴史をどう受け止めるものか、という思いを知ることも大切なことなのでしょう。
本欄は、従軍慰安婦問題が、どこかの首長が矮小化したような不毛な議論に対し、つぎのような指摘を数回行いました。個別の事実の問題よりも、20世紀前半において、民族間で「支配」「被支配」の関係が存在したことは事実として確認し、その上で将来に向けてこのような形を存在させない決意を確認することこそ大切だ、ということでした。今回、入り口のところに偽りの話があったことがわかりましたけれど、この指摘の内容は全く変更する必要はないと考えています。

コンピュータの突然死

2014 年 9 月 5 日

今年の春WINDOWSの古い版はもうサービスが受けられなくなるからと、新規のコンピュータを購入し対応してきました。しかし、古いものにはたくさんのデータが残っていたこともあって、ローカルで使う分には問題はないのだろうと思い込んで、ときどきデータの追加記入やゲームに利用していました。ところが、先日全く突然に、ディスプレイに「信号が入力されません」と表示が出たまま、止まってしまいました。専門家に見てもらえば、簡単に修復できるだろう、少なくともデータの抜き取りなどは大丈夫だろうと思って、近くの電気店(新しいコンピュータを購入した店)に対応をお願いしたところ、「簡単ではありません。もしデータの抜き取りが必要なら多額の経費が必要になります」と厳しい診断が下されました。急にこんなことになるなんて、少なくとももっと予兆が見られたら、対策もできたはずなのに、と嘆いてみても、相手はコンピュータ、ちっともこちらの心情を理解しないようです。
そこで考えてみました。このような状況になったのは、頼り過ぎていたからではないのか、不要なデータをたくさん抱え込んでいたのではないのか、壊れてしまって忘れてしまうような話ならそもそも残す必要もなかったのではないか、という強い反省です。そのことは、自分自身の人生に関しても全く同様なのかもしれません。貯めたつもりが、ただの垢ばかりだとしたら、捨てれば済むだけのことなのです。最近取り上げられている「終活」と言われている、死を前の準備をコンピュータが促しただけの話なのかもしれないと、妙に納得させられています。

地方創生に期待しつつ

2014 年 9 月 4 日

今回の内閣改造で、報道の上では目玉とされてはいませんが、新たな大臣を立てた「地方創生」に強い関心と期待を持っています。日本全体の人口減少の基調は、止められないというより、ある程度までは是認する事象だと考えています。その行き着く先をどのあたりに見極め、そのときの首都圏と地方の役割の本質を考慮することが、まず必要なことです。いたずらに、「わが町は」「わが市は」という個別発展の可能性だけをまとめようとしても、地方全体が活性化できるには不十分でしょう。地方は何ができるのか、何を求められるのか、都市が地方に無理を強いていないか、など、これまでを反省しつつ将来像を描くことが大事です。
担当大臣が、「過去の公共事業型の地方振興ではない」と断言していることは、期待への第一歩でもあります。本欄で前に取り上げましたが、政権党の中堅議員が「地方にとって、公共事業が最大の産業だ」というなさけない発言をしていましたが、このような発想に対して、まずくぎを刺さなければと考えた大臣に期待するものです。短期、長期にわたって、どのような方策で地方を活性化するのか、上杉鷹山公の施策などに学ぶべきことがあるのか、原点に返っての関係者の議論が待たれます。
担当大臣は、以前農林水産大臣を経験しています。彼が大臣を務めていた時代、風穴を開けるような試みがいくつか行われました。結果的に、どれだけのことができたのか、評価は先のことかもしれませんが、職員の多くに、社会的使命感に基づく日々の業務への取り組みを求めたことは、間違いではなかったと思っています。残念ながら、大臣の意図を理解しきれなかったものもいたように感じましたが。
本欄で指摘しつづけている「平成の変」の本当の問題である「財政再建」の課題に対して、「景気対策」という旗の上げ方は、やはりどこかが間違っていると思っています。

ボランティアの活躍とNPOの課題

2014 年 9 月 1 日

豪雨禍にあった広島の被災地に、少しでも早く復興できるようにと、たくさんのボランティアの方が手伝いに参加されたと報道されました。災害を受けた人がいれば、自分の力を少しでも復興に役立てたいという気持ちが、画面を通じて感じられます。このような動きが自然に表れてくるようになったのが、阪神淡路の大震災の時からだと言われています。そのような市民の動きを助長するようにと、NPO(特定非営利活動法人)が社会に認知されることとなりました。本欄も、そのようなNPOの活動の一環として存在しているのです。ところが、NPOとして認可された団体が息切れ状態に陥っている例がたくさんあります。社会貢献を目的に設立され、当初は、参加者の浄財で活動ができていても、一定以上の活動のためには、安定した収入が必要になってきます。これが、目論見通りにいかないのが現実で、結果的に立ち往生してしまうのです。
また残念ながら、NPOという形を隠れ蓑にして、総会屋的な行動をとったり、反社会的勢力に力を貸してしまうようなものがいるとの指摘もありました。その結果、健全な意味での企業訪問を行ってみても、企業の立場からは、選別ができないためにすべてをお断りする、という対応が一般化してしまいました。このことが、健全性を求めてスタートしたNPOにとって、誤算の一つになってしまったのも事実です。改めて、NPOの在り方と存続が問われているとも言えます。
そのような誤算はあっても、広島の被災地で示された、ボランティア一人一人の純粋な支援活動は、心を打つものです。この純粋さを力にして、明日からもNPOの趣旨に叶う活動に力を注ぎたいと願っています。

この欄も

2014 年 8 月 29 日

本欄のもととなるNPOが機能不全状態に陥ってしまい、執筆をしばらく休止していました。NPOとしては機能していませんが、本欄が継続できることを知り、再度投稿するようになってからでも一年近く過ぎたでしょうか。ところが、ホームページそのものも決して長い寿命ではないと考えられる事態になってしまいました。筆者の意思にかかわりなく、ある日すべてが終わってしまうこともありそうな状態なのです。
本欄では、「平成の変」として政治の混迷に対し、問題の本質を衝く指摘を何回も行いました。しかし、実態はひたすら悪い方向へ進んでしまっているようです。核兵器、戦争行為、などを絶対悪と認識しないまま、政治家が判断を下してしまうと、民衆はとてつもない悲惨な目に遭わされます。そんな時代を迎えたくないと筆者は強く考えています。外交交渉は相手のある話ですから、綺麗ごとだけで済むものでないとは十分承知しています。だからこそ、自分だけが絶対的に真実である、という主張だけでは、ことが進みません。どこかで、妥協が求められます。国内の運営が適切でなくなってくると、政府は、国論をまとめようと必死になって、外部に敵を求めます。そのときの相手への非難の仕方は尋常ではありません。この論に反対するものは国賊だ、と言わんばかりに意見をまとめようとします。そういう「熱さ」がいかに危ういものであるか、歴史が示す通りです。
わが国では、このところ財政の健全化の話は、まるで忘れられているかのようです。でも、どの政策よりも考慮しなければならない課題なのです。その課題への取り組みが上手にできないからと、目くらましのように隣国を非難しても何も生まれては来ません。
政党が、政治選択の本質を議論できるような国になってほしいと願っているのですが。