北海道新幹線

2016 年 4 月 28 日

開通してひと月あまりが経過した割に、北海道新幹線のことが華やかな報道になっていません。たしかに、部分開通ですから取り上げる趣向が浮かびにくいのかもしれません。函館そのものは、以前から観光地として取り上げられていましたから、新幹線の影響でたくさんの人が訪れているなどは、話題になりにくいようです。それよりも、いくつか気になる報道がありました。この新幹線がJR北海道の赤字体質を一層強めてしまう恐れがあるというのです。新幹線が持つ華やかさとは別に、切り捨てられている北海道内のローカル線の課題がありますから、とてもお祭り騒ぎにはならないのです。一部の鉄道ファンが熱心に乗車したと言われても、それで黒字が生まれるわけもありません。二代続けて社長が自殺しなければならなかった事情を、皆さん知っているのでしょうか。思い返せば、この悲劇の背景は、モータリゼーションの中で国鉄の経営が厳しくなってきた中で、「分割民営化」が行われたことにたどり着きます。相対的な人口密度が低い北海道は、決定的に赤字の基調にならざるを得ません。逆に東海道新幹線を抱えているJR東海は、膨大な黒字を抱えて、リニアモーターカーを企画したりしています。これで良いものなのだろうかと疑います。現在の鉄道料金について考えると、筆者の住んでいる首都圏では、JRは他の私鉄に比べ、相対的に高いと感じられます。それは、分割民営化を行う直前の「国鉄」の利用料金体系が高かったことの反映でしょう。もし、東海道新幹線で過剰なまでの利益を挙げられるのなら、北海道を支援するか、利用者にもっと還元するかのどちらかを選ぶべきです。不要不急のリニアモーターカーに投資して、それが経済成長のきっかけだ、などと考えることはもうやめた方が良いのです。
JR北海道の窮状を、今回の新幹線の開通はとても救う手段にはなりません。本来であれば、交通政策、居住政策など、広く検討されなければならない問題が根底にあるように思われます。それらのことを考慮せずに、地方創生などと、安直に呼びかけることだけはやめてほしいものです。

あんずの里

2016 年 4 月 26 日

このホームページの本体を運営していたNPOの環境資源開発研究所の理事長をお勤めになった中條高徳さんは、生前ふるさとのあんずの花が咲くころのすばらしさを、よく話してくださいました。同じように懐かしんでいらっしゃったのは、旧制松本高校で過ごした青春時代のことでした。どちらを話すときにも、普段は厳しいお顔の理事長が、とても穏やかな顔になっていたことを思い出します。
その理事長が亡くなられて1年4か月が過ぎました。このホームページも本来は消えているはずなのですが、実際には正しい活動ができていないNPOを、悪い形で利用しようとしている者がおり、それに対する警告もあって、本欄を継続していることについては、以前も掲載した通りです。今月の初旬、理事長があれほど懐かしんでいらっしゃった長野県千曲市の「あんずの里」にある菩提寺に、墓参りに行ってまいりました。実際に交差点の名称が「あんずの里」という場所があり、そこからほどなくのところに菩提寺の禅透院があります。ちょうど、地域ではあんずまつりが行われていて、理事長が眠る墓地も、穏やかなあんずの里の一画をなしているのでした。なるほどあれだけ大切にされていたふるさとの風景なのだと、納得できました。このような思いを以前一度持ったことがあります。秩父の方にドライブした折、「ここが桃源郷なのか」と思わせた花桃が咲いている里を見たときでした。それと同じか、それ以上に、心を和ませてくれる景色の中に、理事長のお墓があります。この欄をお読みで、元理事長の墓参をと思う方がいらっしゃればと思い、かなり詳しいことまで書きました。
それにしても、理事長がお亡くなりになっても、理事会も総会も開かず、毎年行うべき報告もしていないで、「幽霊NPO」を悪用しようとしているゴロには天誅が下されるべきなのでしょう。

真実を明かさないまま

2016 年 4 月 25 日

昨日衆議院議員の補欠選挙が、北海道と京都で行われました。マスコミは、はれ物に触るかのように、選挙期間中取り上げられるべき課題などに関しても、理解を深める努力を行いませんでした。そうすることが、中立を保つ唯一の手段と考えてしまう思考回路が関係者に定着してきてしまっているようです。このような実情を先日調査に訪れた国連の担当者が解析し、危機的状態にある、と指摘したのでした。筆者もこの指摘内容に賛同します。第一、権力が中立を求めるということ自体がおかしな話であると、まず気づかなければならないのです。権力は大衆の批判にさらされる、だからこそ、その健全性が保たれる、というのが歴史を見て考えられる真実なのです。違う言い方では、昔から言われているように、権力は腐敗する、という指摘がこの真実を示しています。だからこそ、権力の座に就くものは、謙虚に行動しなければならないのです。ところが、最近のわが国では、権力を持つということが、その人の全能性を保障するかのような話があちこちに出てきて、「私は有権者の支持を得ているのだから、高校の部活動のあり方についても指示することができる」などととんでもないことを言い出す市長が出てきたりするのです。市長が選挙で選ばれたのは、市の行政を担ってもらう人として選ばれたのであって、その行政の執行に関しては条例等で細かく規定されていますから、おのずから自由度には制限があります。ところが、一旦選挙で当選できてしまうと、とんでもない間違いを犯してしまうのです。困ったことですが、言い換えれば、わが国では本当の民主主義が根付ききっていないのです。そのような基盤の上で行われる選挙ですから、当選する人たちの思惑は、決して選挙民の求めるものと一致していないようなのです。
放送法の既定の文言だけを取り上げて、電波停止を要求することが大臣の権限であるかのように説明する大臣は、一刻も早く退いてほしいものです。
それにしても、この国の最近の動きを見ていると暗澹とした思いに追い込まれます。

国会審議(2)

2016 年 4 月 22 日

TPPの審議をするはずの特別委員会で、気象庁長官をつるし上げるような不愉快な言辞を弄する議員がいたと、前回記しました。長官は科学者ですから、議員のような嘘は付けないのです、と返答すれば良かったと、家人と話しました。それはそれとして、この地震を、絶好の機会と考える、というのが、どうやら与党的立場にいるメンバーの本音のようです。TPPを本気で審議されると、不都合な過去が暴かれてしまいそうで、参議院議員選挙までは伏せて通り過ぎてしまおうとしているようです。考えてみれば、「正しい人とだけ付き合っていては当選できなくなる」と平然とうそぶくような人を国の代表として調整させていたのですから、譲歩ばかりした経過を公表できないのも理解できます。その結果を国民に強いることがどれほどのことか、嘆かわしいばかりです。具体的な寝具が行われれば、これらのことが明白になってきて、政権批判が高まるのを恐れているのでしょう。現在の政権は、政権批判をすることが公平性を欠くとの考え方に立っていますから、本質的な指摘事項に立ち向かう力が極めて弱くなっています。判りやすく言うと、議会で議論ができなくなっているのです。誰が聞いても不誠実な答えだけを述べる石原大臣の姿勢に見られるとおりです。国会中継ができなくなってしまうくらい、地震被害の現地からの放送が求められるなら、その陰に隠れてしまおうとする政権なのです。言葉だけは勇ましいことを述べても、本当には国民のことなど考えていません。ですから、今回の地震の初期に、「被災者が屋内で過ごせるように」と求めた首相の言葉が、結果的に圧死者を増やしてしまったことにさえ、まだ気づいていないようです。
昨年の戦争法案も審議が不十分であっただけでなく、そのやり取りの経過から、首相がポツダム宣言の内容を正しく理解できていないことがわかっても、数の力だけで成立させてしまいました。もう時間が過ぎているから、国民は騙せるのです、と言わんばかりの首相の顔からは、誠実さのかけらも見られません。投票行動で、不信任を突きつけるよりほかないのでしょう。

国会中継

2016 年 4 月 19 日

TPPを審議する特別委員会に、気象庁長官が呼ばれたのは、熊本の地震について知りたいことがあったからだと理解しています。ところが、長官に対する議員の質問の内容が低級であるばかりでなく、地震予知の内容を示せと言わんばかりの言い振りには、不愉快な気持ちでいっぱいになりました。たしかに、熊本のあの地域に、突然深度7を記録する地震が起こったのですから、誰しも、その終息までのことや、余震の範囲などについて情報を知りたいでしょう。しかし、そのような情報を確かなこととして示せないほど、自然の予知ができていないのです。それを議会はすべてをコントロールできると言わんばかりに、議員が地震の今後について質問を行ったのです。傲慢極まりない話です。捨て台詞のように気象庁を非難して、彼の質問は終わりました。
そのあとに行われたTPPの審議もまた、本質に迫れないむなしいやり取りが続きました。野党には十分な情報開示をせずに、「海苔弁当」と呼ばれる黒塗りだけの資料が与えられ、これをベースに議論などはとても行えません。そのような条件の与え方をしていて、首相は平然と「十分に審議していただき」などと口にしています。この特別委員会を取り仕切っている委員長は、TPP交渉の暴露本を出版直前まで行っていたのに、野党からの攻勢を恐れて、出版そのものを中止してしまいました。出版を中止したからと言って、この委員長が知り得たことが沢山あったという事実は変わりありません。それを隠し続けて、秘密保護などを口にする人たちに、日本の将来を語ってほしくはありません。もっと、「国」とか「国境」などの正しい認識から将来に対し議論してほしいものです。アメリカの大統領候補の中にも、正しく認識ができないまま、感情論で支持を広げようとしている人がいますが、決して望ましいことではないと筆者は思っています。
それにしても、国会は国民の負託を受けて議論できる人たちで構成されてほしいものだと思わされたのでした。

熊本地震(2)

2016 年 4 月 17 日

最初の震度7を記録した地震から一日余り経過したのち、昨日未明に、より強い地震が観測されました。最大の震度は6強でしたが、揺れた範囲が広く分布し、明るくなってから映し出された現地の山崩れの状態などからも理解できるように、こちらを「本震」と呼ぶと関係者からの発表に納得がいきました。最初の報道で、九州を東西に貫く断層の活動の結果だと言われていましたから、この断層沿いにもっと強い揺れが起こってしまうのではないかと思っていたことが、現実に起こったのでした。なんとなく、最初に揺れたものが最大で、そのあと残りのひずみを吐き出すように余震が起こるものだと印象付けられていましたが、実際には東北大震災の時のように、少し前にあった揺れが引き金となって、より強い地震を誘発することがあります。今回の地震はそのようなタイプでした。そのうえ、この断層は、本州中央部まで続くものですから、継続してしまうことが心配されます。震源が、九州から出て四国にまで移動した場合、愛媛県の伊方原発の周辺にも及んでしまいますから。もちろん、それほどの大きなひずみが蓄えられてはいないことを信じますが。
内陸型の地震の場合、地面の大きな崩壊が見られます。観光客の多くが阿蘇山に行く時に通ったはずの「阿蘇大橋」が落下してしまいました。大きな谷を越えていた橋ですから、復旧にも時間がかかることでしょう。国道にも、それと並行していた鉄道にも崩壊が牙をむいていました。このことも復旧を遅らせてしまうかもしれません。断層帯が一刻も早く落ち着いて、復旧への道筋が見えてきてほしいものです。
それにしても、東北大震災をはじめ、日本列島の周辺の地殻が活動期に入っていると感じさせられます。どこまでで揺れが収まってくれるのか、人の力の弱さも痛感させられます。

熊本で大きな地震

2016 年 4 月 15 日

そろそろ寝ることなどを考えながら、ぼんやりとテレビの番組を見ていた時でした、その警察ものの番組に突然割り込んできたのが、熊本県地方で大きな自身が観測されました、との報道でした。内容が一転してしまったのでした。緊急に番組が変えられるほどの事態だったからです。たまたま、震源に近い場所が、近親者の出身地に近かったこともあって、震度とともに挙げられる地名になじみがあり、とても他人事とは思えない気持ちで報道に接していました。九州はいずれ南北で別れるような地殻変動が進むのだから、などと、普段は煙に巻くような話をしていましたが、実際にそのような活動の一環が出現してしまったとき、被害に遭われた方には慰める言葉が出てきません。初めて感じた強い地震の揺れと、その結果として壊れてしまった家など、災害に直面した人たちに対しては、理屈を言うことが憚られます。一夜が明け、亡くなった方が9名と伝えられています。揺れの激しさなどからはもっと被害が出てしまったかと思いましたが。また、最初の中継で熊本城の方に、埃が舞い上がるような光景がありましたが、石垣が崩れたり、瓦が落ちたりしていたとの報道に、あのときの光景はそれを伝えていたのだと納得しました。
地震を伝えるときに、津波の可能性を必ずコメントするのは、東北大震災の後遺症のような気がしています。警戒すべき一つの事象ではありますが、無条件に「地震→津波」としてしまうことが、かえって事の内容を正しく伝えていない場合があるように思います。災害回避は大切な追求事項ではあります。しかし、余りにも平板にフレーズを挿入していると、本当に述べなければいけない時に効果を失ってしまいはしないかと心配しています。昨日の地震で被害が小さくできたのは、日ごろからの防災意識が高かったからだとは思いますが、それをどのような形で日々表していくのが良いか、検討が必要なのかもしれません。
官房長官が、震度とマグニチュードとの違いを知らないのだと、中継を見ていて判ってしまいました。地震で、震度5強以上の揺れが出たときには被害が発生している可能性が高いと、官房長官である以上知っていてほしいものです。

憲法の危機の本質

2016 年 4 月 13 日

昨年の安全保障法案の成立がもたらすたくさんの危機が想定されます。軍隊と言う力の論理で国際的なトラブルが解決できると考えてしまう、その思考回路への誘導は危機の一つの側面だと思います。しかし、あの法律の成立過程でさまざまに表れた問題で、最も本質的なものは、つぎのようなことではないでしょうか。戦争法反対を唱える人たちが一様に示していたのは、「憲法第9条を守れ」ということでした。たしかに、大量破壊兵器をこれほどまでに開発してしまった人類にとっては、憲法第9条が掲げている、国際紛争の解決手段としての武力行使を認めない、という趣旨は大切に守るべきことです。それ以上に政権側がちらつかせていた「憲法が権力者を縛るものである現状から、国民を縛るものに変えてしまおう」という考え方に、何より危機感を覚えます。例えば、国歌・国旗を憲法で制定して、これに反するような国民がいたなら憲法の名のもとに罰してしまおうとする考え方です。現在の憲法では、このような強制がなされないよう国民のこころの自由が保障されています。ところが、現在の政権側の人たちは、このような自由度があることを認めようとしません。それよりも、国民のそれぞれが固有に持っている自由度を制限していくことが国家なのだと思い込んでいます。2世紀半以上前のどっかの王様のような発想です。多くの近代国家の憲法は、かつてあったこのような領主さま中心の発想から国民を解放するために制定されたととえ言えます。それなのに、現在の政権政党は、「国」の名のもとに、国民の心を縛り付けようと考えているのです。その危うさに対し、国民はもっと目を向ける必要があります。国際的緊張感などを口実に、政権党が押し付けようとしている前近代的な発想こそ、まず国民こぞって反対すべき内容であると、筆者は考えます。
そのうえで、国民の求心力となりえる国家とはどのようなものなのか、政治家は考え続ける義務があります。間違った国家を形成してしまって、それに従えとするような政治はまっぴらごめんです。

お米の値段

2016 年 4 月 11 日

最近はお米を買うのはスーパーマーケットで、ということが多くなりました。小さかった頃は、お米は、お米屋さん、お酒は、お酒屋さんと専門のお店で買うのが普通でした。お米屋お酒を扱うお店の人は、その商店街では名士として、さまざまな名誉職に就いていることが多かった記憶があります。今では、免許制が廃止されるなどして、販売ルートがスーパーマーケットに移ってしまいました。昨年の秋以降、お米の値段が下がらなくなった、というか、安売りされることが無くなったと感じていました。今年になっても、5kg入りの袋で、250円/kgを割るような単価の特売は見られません。そのうえ、良食味米として名の売れているブランド品は、400?500円/kgの高い値でいつも売られています。この傾向が感じられた昨年の秋には、てっきり昨年秋のお米のできが、やや不作だったのかと思っていました。最近になってわかったのですが、農家が水田に飼料用のお米をたくさん作付けした関係で、人が食べるお米の臭利用が減ったのだということでした。スーパーマーケットでは、お米を二袋まとめて買うと、より安くなる販売方法もありますが、このところその方式の安売りをあまり見かけません。今年の秋までのお米の在庫量と消費量とを比べると、値下げをしなくても売切れると業者が考えているのでしょう。そして、昨年作付け面積を伸ばした飼料米の栽培は、今年も同じようになるとすれば、暫くはお米の安売りに接する機会も少なくなるのかもしれません。
平成5年の大冷害の時、東北に住んでいて、収穫会務の水田を目にしたこともありました。5月の田植の後、気温が上がらないので、わざわざ植え替えたのに、まったくその効果がありませんでした。8月半ばを過ぎるまで、30℃を越えるような日が全く出現せずに、青立ちのまま秋を迎えてしまいました。あの頃、政府は一年分の備蓄は整えるという政策下に置かれていましたが、備蓄の保管料を軽減するために、備蓄をどんどん減らしていました。その結果、冷害の翌年である平成6年には、国産米が不足し、急遽輸入されたタイ米などと混合したお米が売られたのでした。そのような記憶も薄れて、食べ物に対する国民の思いが問われるとき、TPPの審議が国会でむなしく行われています。

バドミントン選手の不祥事について

2016 年 4 月 8 日

今年開かれるリオ・オリンピックで金メダルが期待されていた選手が、闇カジノで賭博行為を行っていたという報道がありました。すでに、本人の事情聴取などから、伝えられた内容の筋は間違いではなかったと明らかになりました。当然ですが、このような行為に手を染めてしまった選手を代表としてリオデジャネイロに送るわけにはいきません。ミスミス金メダルを逃したということよりも、このことが示す深刻な課題に迫りたいと思います。スポーツ選手であるより以前に、正しい社会人であれ、とは、このような不祥事が明るみに出るたびに述べられる正論です。ところが、このような正論が遠ざけられてしまう何かが、スポーツ界の一角にあるように思われてなりません。それは、先日の高校野球の選抜大会でも指摘されていたような、サイン盗みを行う高校が甲子園に出てきていることと、どこか通底していると筆者は考えています。勝利至上主義、指摘されるまでは平然とルール違反をする、という体質が、スポーツ界を捻じ曲げているのではないでしょうか。行き過ぎたスカウティングなどにも、その一端が見られます。学校名、企業名を挙げるために養われているようなスポーツ選手は、どこか社会的にひ弱な側面を持っています。バドミントンと言う専門種目で、あれだけ秀でていたのにもったいない話ですが、このような不祥事を回避するには、関係者全体の意識の高さを求めることが大切だと、筆者は思っています。
残念なことですが、女子のバドミントンもランクは上位にいます。男子陣営の不祥事を振り払って、女子メンバーの活躍を強く望みます。また、報道機関も、軽薄な追い方をせずに、スポーツ選手の本当の努力の様などを伝えることで、しっかりした体質改善に寄与してほしいと願っています。