書かないということ

2015 年 4 月 24 日

敗戦70年となる今年、現総理大臣は談話の発表を考えているようです。しかし、考える機能が失われているのか、わざわざこのための有識者の会を作りました。しかし、内容を有識者に委ねるわけではなさそうで、先日も首相のある見解が示されました。50年の村山談話、60年の小泉談話で海外からも注目された、周辺諸国に対するお詫びの言葉についてです。現首相は、「私は以前からの見解を引き継ぐと言っているのだから、今回はお詫びに当たる言葉は書かない」と言い張っています。これは、小学校の生徒でも判る話で、周辺国への配慮から採用された言葉を書かないのだとしたら、その気持ちがないのだと思われても仕方のないことです。何より、現首相は、周辺国とのエチケット外交さえできないままですから、今回示された首相の見解は、周辺国から支持されないであろうことは明白です。この小学生でも採用しない理屈を平然と述べる首相の頭の構造を疑います。それも、わざわざ踏襲するのだから書かない、という理屈をつけていますが、誰の目にも無理な理屈です。
日常の振る舞いが、村山談話や小泉談話とほど遠いからこそ、今年どのような談話を出すのかが注目されているのです。それに対し、最も注目される文言に関し、「踏襲するのだから書かない」というわけのわからない話をしているのです。このようなことで、本当に周辺国との平和を求める外交ができるのでしょうか。きわめて難しいというより、波風を立てることが私の役割なのだと言わんばかりの振る舞いです。その言葉の先に、積極的平和主義、だとか、国際平和貢献活動、などという、とんでもない話を接続させています。この首相のいい加減な振る舞いに、国全体が引きずられるようでは、将来は不安だらけです。それなのに、与党の中から是正を促す言葉が出てきません。困ったことです。

雑木林の春

2015 年 4 月 22 日

昨日郊外のレストランで食事をしようと着席すると、芽吹き始めて様々に彩られた鮮やかな雑木林が目に映りました。随分いろいろな色だな、との感慨と一緒に、小学校時代に近くの公園まで写生に行ったことが思い出されました。筆者は、本当の景色を見るより前に、空は青、地面は茶色、木は緑、と頭の中で色彩を決めてしまうような少年でした。ですから筆者が描いた絵は、少しも面白くありませんし、感動を与えるものでもありませんでした。そのとき、クラスの中で、とくに二人の級友は、大胆に林の色を塗り分けて、子供心にも美しく春を描いたものでした。その美しい絵を見てから林を見直せば、たしかにあの二人は自然をしっかり観察して、自分で見たことを素直に描いているのだと感心したものでした。きのうの昼食時、そんなことを思い出させるきれいな雑木林がありました。
その写生会の時、もう一つの思い出があります。少し遠い公園まで、自分たちの画板と一緒に、普段使っている椅子を持って行きました。長いこと座って絵を描くのですから、椅子持参は先生方の配慮だったのでしょう。ところが、クラスの中で体格の大きな二人は、他のメンバーと異なり、大きな椅子を宛がわれていて、この椅子は大きすぎて持ち運べない、という問題が出てきたのです。ほとんどの子は、自分たちのことではないものですから、関心を示しませんでした。ところが、なぜか他人のことの方が気にかかる性格ですから、どうすれば、その二人に椅子を手当てできるだろうか、と先生方と一緒に考えました。ひらめいたのは、音楽室や理科室など、小学校の中にある特殊教室に持ち運びできる椅子があるのではないか、ということでした。その自分のアイディアが解決に役立ったか、それとも、それ以外の解決策をとったのかは記憶にありません。でも、このような自分の性格を自覚させられた時ではありました。昔在籍していた公務員研究者の時代、研究テーマの必然性をまず優先的に考えたことの始まりだったのでしょうか。他の研究員が、研究者趣味的なことに平然と没頭している姿を見て、嘆かわしく思ったものでした。
春、雑木林の美しさは特別です。ゆっくりと観察できる心の豊かさがもっと広がれば良いと思っています。

統一地方選挙後半

2015 年 4 月 19 日

筆者は政令指定都市に住んでいる関係で、統一地方選挙の後半は関心が全くないのですが、今回の前半を終えたところで、与党が圧倒的な支持を得た、と首相が話すのを聞くと、それは違うのではないですか、と異議を申したくなります。選挙全般に対し、政策論争を巻き起こさずに、選挙民の関心をなるべく抑え込んで、低投票率に持ち込み、結果として、国民は変化を求めていない、と逃げ込もうとしているように見えます。なぜなら、昨年の、滋賀県、沖縄県の知事選挙にられたように、選挙民の関心が高かった選挙では、きわめてダーティーな策を政権が出したにもかかわらず、選挙民は現政権NOの結論を出したのでした。すると、この結果に対し表敬訪問さえ受けないという、小児病的対応で首相官邸は応じたのでした。
国民の政治的関心を高めさせないために、現政権に批判的な論説があると、圧力をかけて当然とする与党です。これは、民主主義の根底を揺るがす問題なのですが、首根っこを押さえられているマスコミは、その批判さえもうできなくなっています。きわめて危険な兆しです。このような動きは、数年前の選挙で政権交代が行われた結果から、政権を失うことがどれほど身に応えるかを知ったからなのでしょう。考えてみれば、戦後70年、自民党は政策を持つというより、政権に就くことで、地元への利益誘導を行う構造を保って、それが次の選挙での勝利を招く、という循環の上に乗っていたのでした。それが外れてしまったことへの驚きが、現在行われているような言論弾圧(圧力ではなく中庸であるべきと指導しているのだとうぶ居ています)になっているのです。そのうえ、アメリカ従属型で、憲法違反の閣議決定を平然として、その上で歴史を塗り固めようとしています。
でも、国民は見ています。知っています。このような愚かな動きは、決して長続きしないことを。
統一地歩選挙の前半が行われた日、ある民間放送局は国債発行が不調になるというエックスデイをテーマにしたドラマを流したのは、精一杯の指摘だったように感じたのでした。

国の行方

2015 年 4 月 17 日

何かとてもおかしなことが、わが国のこれからの選択に関し、進められているような気がしてなりません。どうおかしいかと言えば、行政を担う人たちが間違いをおかさないようにと作られた法律を、行政が自分の思い通りのことを進めるために使ってしまう例が見られるからです。それは、放送法を内閣が持ち出して、マスコミを牽制している事例に見られます。本来、行政が勝手なことをしないようにというのが、法律の本意なのですが、法律に書かれている公平・中立との文言を根拠に、政府に反駁するような理屈を述べる人たちをマスコミから排除しようとしているのです。それを実行している本人たちが、「圧力など掛けていない」と主張することの滑稽さを追及できる言論人が、あまりにも少なすぎるのが情けないことです。
同様に、沖縄県が辺野古の作業の差し止めを求めたのに対し、農水大臣がこれを阻んだという動きも、本来の法律の目的からは遠い対応です。訪米を前に首相は沖縄県知事と、初めての会談を持ちました。そのこと自体は決して悪いことだとは思いませんが、自分の思い込みだけを主張する小児病的な首相の言動を見ていると、会談が実りあるものにはならないような予感があります。相手のいうことも聞いて、どこかに妥協点がないものか、と発想できることが、政治家の最低限の資質だと思うのですが、最低限にも至らない人が今わが国のトップを占めているようです。普通であれば、諌める人が近くにいるはずなのですが、遺憾ながらそのような対応をする人がいません。本来なら、もっと視野を広げるようにと進言すべき与党の長老が、その立場ではなく、アメリカからの指示なのでしょうか安全保障法制定のために汗を流しているのを見ると情けなくなります。この国の行方はどうなるのでしょうか。

目覚め

2015 年 4 月 16 日

桜の花の開花の後、寒い日が続きました。それでも、本当の冬の頃に比べ、朝の目覚めが、外の明るさに導かれるように、早くなってきていると感じています。春眠暁を覚えず、というのではなく、春の暁は心地よい目覚めをもたらす、と感じるのは、老境に入ってしまい、二日酔いもしなくなったからでしょうか。でも、早い目覚めをしても、本当の暁はもう過ぎてしまっている、とも感じますから、もしかすると、昔の人が言う「春眠暁を覚えず」とは、われわれの目覚めの間隔よりも早く、春の日の出がどんどん早まっていることを指摘しているのかもしれません。
定期的な仕事をしないでも済むようになって、早い目覚めを活かす方法があまりありません。ある友人は、一年中朝の体操に通っているそうで、夜明けが早まってくるこの季節は、とても気持ちが良いものだと言っています。
わが国は、全体がマインドコントロールされているかのように、不覚醒の状態に陥っています。集団的自衛権行使の閣議決定の後、これほどいい加減に安全保障法制の議論が進んでいても、国会の中から「いくらなんでも」という良識のある話が聞こえてきません。どんどんエスカレートしている対象事案など、今議論されている中味であれば、明確な憲法違反となると、どうして指摘できないのでしょうか。麻生副総理が言っているように、国民を目くらましさせてやれば、ナチスだって合法的に権威になれたのだから、という論法に侵されているようです。国会議員、マスコミの目覚めを強く求めたいと思います。いったんこの道に深く踏み込んでしまうと、簡単には後戻りできなくなってしまいますから。

統一地方選挙

2015 年 4 月 15 日

10道県の知事選挙などが問われた、統一地方選挙の前半がこの前の日曜日に終了しました。現与党の推薦する候補がすべて当選し、このことで首相はご機嫌な会見を行っていました。沖縄県知事選挙で敗れた後は、まともな談話さえしなかったのとは対照的です。しかし、本欄ではこの選挙についてすでに記したとおり、投票率が低くなるよう誘導されている、あるいは選挙戦を盛り上げないようにしている、動きがあると感じられてなりません。そして、そのことは、民主主義にとって、とても望ましくないことなのです。一票の権利・義務を果たす機会を、ほぼ半数の人が捨ててしまっています。それに乗じて、現在の枠組みで利益を得ている集団が、一層のさばる風潮が強まるのです。そして、現政権が承認されていると言わんばかりの首相談話が報じられます。
集団的自衛権の行使にかかる閣議決定がなされて、まもなく一年になります。その法制化が議論され始めると、もう、当時国会で議論されたことなど忘れたかのように、海外の平和を守るために自衛隊を積極的に派遣しようとの話にまで枠が広がっています。冷静にこの変化を見れば、昨年の閣議決定でさえ憲法違反でしょうが、現在議論され始めていることは、憲法違反の枠をはるかに超えています。それなのに、どこのマスコミからも、この問題点を責める論が出てきません。それを述べると、自民党か睨まれてしまうからなのでしょう。不健全な社会に急激になろうとしています。少し経って、この時代を振り返ると、どうしてそのような風潮に流されてしまったのか、との反省が出てくることでしょう。今の、まるで検閲制度が出来上がってしまったかのようなマスコミへのコントロールが、情けない話と指摘されることでしょう。
実は、これらの課題と、財政破綻の課題とが、ともにわが国の行き詰まり感を高めてしまうはずです。放埓な国債管理、物価の番人である日銀の役割放棄、これらを実行していった人々を戦犯としてしっかり記憶しておかなければいけません。

オバマ大統領

2015 年 4 月 10 日

アメリカ合衆国のオバマ大統領の任期も余すところ少なくなってきました。というより、両院ともに共和党が優勢となって、大統領としての存在感がすっかり薄れてきてしまいました。彼が大統領候補となった時、政策課題でぜひ考えてほしいことがありました。それは、「ニューモンロー主義」とでも呼ぶ、アメリカ合衆国の世界に対する過干渉をやめることでした。東西の冷戦の後、多少の無理をしてまで、世界の保安官であろうとしたことが、アメリカの退潮の原因の一つだと考えていたし、テロを誘発させていたからです。世界の保安官を気取って見たために、結果的にテロ集団を育成し(テロ組織が強くなったのは、きわめて皮肉なことに保安官然と行動した先進国の圧力の結果です)てしまった状態から脱却してほしいと願ったからでした。昔、アメリカが世界に対しそのような位置をとったき、それを「モンロー主義」と呼んでいましたから、そのニューバージョンで、オバマ政策を進められれば良いと考えたのでした。
就任後、核廃絶を打ち出すなど、オバマ大統領の視点は、それなりに期待できるかと思いましたが、結局は前任の大統領のレールからはずれることはできませんでした。そのうえ、テロ集団の見かけの力が付いてしまっていますから、世界は全体が不安な時代になっています。そのようなアメリカの課題を、日本はすべて受け入れて集団的自衛権の行使を容認しようとしています。このこと自体が、憲法違反であるばかりでなく、平和国家日本の看板を外そうとしていることにほかなりません。いつのまにか、政権の中から出てくる言葉は、日本がアメリカと協力して、世界の保安官を気取ろうとしている対応を、認めているかのようです。これを進めていくとどのようなことになるのか、少なくとも、テロ集団の攻撃対象の上位にわが国が位置づけられることは間違いありません。
このような判断をして良いはずはないのに、萎縮してしまっているマスコミは、一言も書こうとしていません。国会で議論さえできていないのに、もう、「わが軍」と平気で口にするような首相に、厳しい指摘もできなくなっています。
本欄で、再三にわたって指摘していることですが、現在の優れた軍事力を行使した戦乱は、現在の国際法に違反することになります。世界全体が、人類として犯してならないことを明確に指摘している国際法があるにもかかわらず、それを集団的自衛権の名のもとにくつがえして実行しようと考えているのが現政権です。とても許せないことです。

冷たい雨

2015 年 4 月 8 日

今朝はみぞれが降り、傘を持つ手が凍えるほどでした。今は、そのみぞれが雨に変わって、冷たく降っています。桜の花が開花したころには、もうこんな寒さが戻るなんてと思っていませんでしたが、自然の変化は私たちの浅い読みとは違う結果をもたらせます。気温の変化が大きい季節の変わり目にはよくあることなのですが、人間の無智をあざ笑うかのように、厳しい自然界を見せつけるのです。桜の後、若葉が一斉に芽吹いて、浮き立っていた気持ちが、この冷たい雨で、水を差されています。
政府と沖縄県の間で、会談がもたれたことは、決して無駄だとは考えません。主張に、歩み寄れない隔たりがあったとしても、お互いを無視するようなそぶりをしていては、民主国家だなどととても言えないのですから。顔を合わせれば、主張の隔たりはあったとしても、同じ時代を構成するメンバーとして、それなりの受け入れ可能性がどこかに見えてくるはずです。その点で、アメリカ軍の基地に引き裂かれてきた沖縄県の民意の持つ意味が、官邸にも少しは伝わったのではないでしょうか。
隣国である北朝鮮は、残念ながら、このところ会談を持てる状態になっていません。拉致事件という、国家として犯してはならない行為をしてしまった相手に、どのような歩み寄りができるものでしょうか。拉致された被害者には、まで知らされていない過酷な結果が押し付けられている可能性も否定できません。正直な打ち明け話をされた時に、どうしようもない憤りを、抑え込む自制心を持たなければいけないのでしょうか。それでも、過去を正直に伝えることこそ、唯一の反省の方法ではないかと考えます。
冷たい雨に、人の心の冷たさを思います。

統一地方選挙

2015 年 4 月 5 日

都道府県議会などの議員を選ぶ統一地方選挙が行われています。なぜか盛り上がらないのは、無投票当選の区がたくさんあったり、政党が相乗りしている候補がたくさんいたりして、選挙戦としての意味がなくなっていることも理由の一つと言えるでしょう。一方で、自身が住んでいる自治体の財政が健全な状態であるのか、危機が近づいているのかさえ、一般の市民は関心を持てていない、というのも事実なのでしょう。この状態を見ると、わが国は民主主義ではなく、「お上」が政治を行っているのだ、という海外からの指摘が正しいような気がしてきます。遠い昔、革新自治体を増やそうと力が入った地方選挙が行われた時代もありました。しかし、結果においては、政党のエゴなどがむき出しにされて、市民の期待は裏切られてしまったことが多かったと記憶しています。
本当は、このくらいのことで絶望してはいけないのかもしれません。もっともっと、身の回りの政治に関心を持つことが、市民の義務なのかもしれません。でも、市民はすっかり白けていて、どうせ立候補者の権勢欲の主張である、くらいにしか演説を聞いていないのでしょう。身の回りの自治体に対して、このような関心の程度であれば、国政など一票がわずかな力しか発揮できないものには、さらに関心が薄れてしまうのも必然なのかもしれません。他の国では、民主主義を勝ち取るまでに、それなりの犠牲を払った過去がありますから、市民が政治を監視する思いは強いのでしょう。ところが、わが国では、基本的に「お上」頼りの政治になってしまっているのです。その結果が憲法を無視した閣議決定がなされようと、抵抗する力が出てこないのです。
与えられた民主主義に甘んじていれば、いつかある日、根底から覆ってしまう恐れがあるのにです。

桜満開

2015 年 3 月 31 日

首都圏では桜の開花が宣言されてからも、暖かい日が続いて、一気に満開を迎えています。近くの学校の校庭には桜が植えられています。見事と言いたいのですが、残念ながら無理に枝を切られた株が多く、満開を確認はできても、なぜか納得感が足りません。植樹の時は小さな苗でしたから、距離を置かないでもと考えたのでしょう。ところが、大きくなってくると、隣の樹と競ってしまったり、張ってあるネットにぶつかってしまって、形が悪くなるほど枝を落とされてしまっています。以前本欄では、このようにゆがんだ姿になった桜が、育っていく中学生を象徴することのないようにと、気遣った文を乗せたことがあります。植樹から適宜間引くなど、もっと一貫性のある緑地管理をすれば良いのにと、思うばかりです。
ただ、学校の片側を川が流れていて、こちら向きの枝だけは、伸び伸びと枝を張っています。枝の姿と、水に映えることで、こちらは矢張り見事になっています。日本の学校では桜を植えるのが定番です。これから実施する人たちは、桜の特性を十分考慮して、生徒たちと同様、伸び伸びと大きくさせてほしいものです。
どこか見に行かなければならない、という気持ちも持ちますが、無理をしてまでも人混みには、と躊躇しています。4年前、吉野の桜を企画しましたが、大震災があって、あきらめた覚えがあります。不思議なもので、再び計画を立てることもありません。
また来年も、この桜が咲く季節特有の、心の動きを感じられるのでしょうか。