連敗記録

2015 年 5 月 24 日

野球で連敗が続くのは、どの程度の実力差があるときでしょうか。団体ゲームの野球では、チームのムードがなぜか盛り上がらない場合など、実力差があるにもかかわらず勝てないことがあります。長いシーズンが続くプロ野球では、およそ、勝率が4割から6割の範囲で勝敗が決まっていくようです。そのようなことを考えると、94連敗を重ねたチームがあったことは、大変貴重なことのように思われます。連敗が続いていても、武士の情けなどはかけずに、きっちりと勝ち切っていた5チームがあったことが貴重なのです。万一、同情や憐れみなどが表に出てしまえば、このような経過はなかったことでしょう。負けても、負けても、何とか勝ちたいと精進した結果94連敗で止まったことを、素直にたたえたいと思います。スポーツは、素質が出てしまうところがありますが、一方では、その素質だけを頼ってしまえば、足元をすくわれる場合もあります。そう思うと、前に書いたことと重なりますが、94連敗を突き付けてきた相手の5チームの気構えも、同様に称えたいと思います。
プロ野球は、シーズンが長いこともあって、どうしても、ひたむきさが欠けてしまうようなゲームを見せられる場合があります。選手の起用などにしても、入場料を払っている観衆に対し、舐めていると思われることもあります。そのように観衆を裏切るゲームをしてしまえば、最後は自分たちに跳ね返ってきてしまうのです。勝敗のあることではありますが、それ以上にスポーツの持つさわやかさで、感動を与えとほしいものと思っています。
プロ野球は、交流戦に入ります。昨年もそうでしたが、チームの流れが、ガラッと変わってしまうことがあるようですから、しっかりと取り組んだ球団が、上位に進んでいくことでしょう。
連敗しても卑屈にならずに精進した選手たちに敬意を表したいのです。

さわやかな朝

2015 年 5 月 21 日

夜明けを前に雷の音が何回となく響いて、すぐ近くにも落ちた様子が感じられました。地震、雷、火事、親父、ですから、二番目の恐ろしさを与える雷です。現在の住宅事情などからは、もう少し恐ろしさランクを下げても良いのかもしれません。あるいは、昔に比べ、雷が科学として解明された分だけ、その恐ろしさランクを下げる結果につながるのでしょう。中谷宇吉郎さんの「雷の話」を昔読んだときに印象に残ったことは、以前本欄でも一度触れたことがあります。それは、雷を解明するために招集された委員会のメンバーが、実際に研究を分担したり、連絡しあったりして、成果を前進させることにたいへん寄与できた、という言葉でした。その成果の裏側として、「一般に設けられるこのような委員会は、権威のある先生が並んでいても、その場で思いついた程度のことを話をしてお茶を濁し、研究を進められるようなものはほとんど見かけない」という批判でした。中谷先生のこの批判は、例えば、介護保険を前にした検討委員会に市民代表で参加した時など、驚くほど当たっていて、内心にやりとさせられたものでした。
その夜明け前の雷が過ぎると、さわやかな、まさに「五月晴れ」のすがすがしい朝がやってきました。今年は、晴れると暑くなり過ぎる日が多かっただけに、とても気持ち良い朝でした。人の心は、不思議なもので、このようなさわやかさを感じさせる自然現象があると、微妙に浮き立つものです。政界のいい加減さに怒ることもしばし忘れて、もう新緑を過ぎた緑を心地よく味わっています。

義務教育の大切さ

2015 年 5 月 20 日

新聞の報道で、義務教育を学校に行かなくても受けることができ、その仕組みで卒業がかなうようにする、と超党派の議員が進めているとされています。いじめなどの問題で、学校に行き辛くなっている子供たちが多数いることは承知しています。ですから、そのような子供たちが救われる手立てを考えることが大切であることも理解できます。しかし、何か違和感を覚えます。筆者が天邪鬼であるからでしょうか。本来、義務教育の場は、すべての子供たちに平等に提供されなければいけないと、筆者は考えています。当然のことですが、たくさんの子供たちが集まれば、気が合う仲間だけではないはずです。それでも、同じ時代を共に生きるという、最低限のことを身に着けるには、登校しないでも卒業できる、という道を安易に選択させてはいけないと思うのです。言い換えれば、登校できないような生徒を作り出している学校の反省が、もっともっと行われたうえであれば、今回のような自宅やフリースクールでの勉強に置き換えることを考える余地が生まれてきます。その反省をしないまま、次善の策であるものが前面に出てきて検討される風潮の裏側に、情けない学校管理を是認している動きが見えてしまうのです。
先日、任期終了で市長をやめると発言した人が、教育委員会の至らなさを、選挙で選ばれた自分が代わりにやてあげてどこが悪い、と言い張っていました。でも、この市長の発言の方が間違いなのです。教育は、そのような権威付けで操ってはならないものなのです。時代を作り上げる子供たちを、安直に洗脳して侵略国家の兵隊にしてしまった過去を思い出せば、市長の主張の誤りが判ることでしょう。
登校できない子供たちにも教育の機会を与えよう、という趣旨は間違ってはいません。しかし、その前に登校できない子を作り出してしまっている教育界の現状をどう反省すべきか、そこのところを超党派の議員団もはっきりさせてほしいのです。

盛り上がった住民投票

2015 年 5 月 18 日

大阪市に特別区を設けることの賛否を問う住民投票が行われ、僅差で反対票が賛成票を上回り、特別区設置の方向は止められる結果となりました。この案件を「大阪都構想」と短縮して呼んだりしていましたが、正式には、「都」を名乗るには、もうひとつ次の手続きが必要とされていたのでした。今回の結果からは、しばらくは「大阪都」を話題にするような動きは無くなったと考えられます。首都圏に住んでいる筆者としては、大阪固有の微妙な自治へのこだわりがあったのではないかと感じています。東京に対する、対抗意識、置き去られ感、などが、今回の動きの底流にあったのではないでしょうか。他国のこととしてみていたスコットランドの独立投票と、どこか共通するものを感じます。そして、イギリスでは、二大政党の時代が崩れてしまうような地殻の変化の動きがあるようです。わが国でも、維新の名前どおり、新しい国の形を求める動きが、今回の住民投票の結果から、生まれてくるかもしれません。
問題提起を積極的に進めてきた橋下市長は、今回の結果を受けて政界から身を引くと述べています。平成維新のために、本当に必要な人は、これから出てくるでしょうか。
橋下市長は、自身で「敵を作るような政治家は、ワンポイントリリーフはできても、長いこと政治の場に身を置くべきではない」と語っています。たしかに、対立を煽るような言葉の使い方で、敢えて問題を身近にさせようとしたことが、いくつかあった気がしています。ただ、彼の語り方は、次のような問題をはらんでいました。それは、教育委員会の改革に関して、最も危なげに聞こえるものでした。教育委員会は、政治的に中立に、と言われるのは、人が生きる指標は、政治的な対立案件などよりもっと深遠なところに根差すものだから、というのが一般的な解釈です。ところが、現実の教育委員会は、このような理想を実現させていくだけの動きがとれていません。そこで、橋下市長は、選挙民の支持を得られた市長が、その権限を用いて教育改革を進めるのだ、と言い放ったことには、きわめて強い違和感を覚えたものです。教育委員会が、独立して高邁な対応をとるべきなのだ、とされているのは、過去において、戦争協力などのために、とんでもない教育支配をしてしまったことへの、反省があったからです。たしかに、その高邁さには追いつけない人たちが圧倒的に多かったのは現実だとしても、だから、選挙で選ばれた市長に万能性を認めよ、というのは、こと教育に関しては、言ってはならなかったことだと、今でもはっきりと指摘したいのです。
去っていく風雲児ですから、それ以上のことは言わずに、お疲れさまということでおしまいにしましょう。

雨天決行

2015 年 5 月 16 日

筆者の住む家の近くに、公立中学校があることは、これまでにも何回か話題として取り上げました。今日、土曜日に運動会が予定されていました。朝方の雨の具合から、きっと延期になるだろうと思っていましたが、なんと、決行されています。参観する保護者の都合などを考えると、多少の無理をしてでも、土曜日にしてしまいたい、という主催者の気持ちが伝わってくるようです。筆者の時代には、運動会は、春と秋、二回ありました。春の運動会は、「小運動会」と称して、組替えの後のクラスの団結を促したり、新しい友人を作る機会だったのだと、今だと感じます。秋の運動会は「大運動会」で、種目数も多く、体育の日がなかった時代でしたけれど、スポーツの秋を思わせる良い行事でした。それでも、運動音痴の筆者は、素質のなさをいやというほど味わわされたものです。そのわりに、スポーツ嫌いにならなかったのは不思議なことです。いつの間にか、スポーツ好きが自分の行動基準を決めていき、大学の生活もその基準に従いました。
今、中学から、運動会の放送が聞こえてきます。毎年生徒は変わりながら、雰囲気はほぼ同じだなと思わされます。そんなことは、老人の感慨で、実行している生徒たちは、この行事を通じて自分がおとなに近づいているとどこか自覚していることでしょう。昔の自分を思い出すと、甘酸っぱい思いになります。
高等学校の体育祭は、保護者に見せるのではなく、自分たちのエネルギーを燃やし尽くすことに重点があった気がします。準備から実行まで、ほとんど生徒の力で行ったものでした。準備委員会に所属していて、競技指導のため自分の受ける授業を免除される特典がありました。ほとんどのメンバーは、芸術の時間などを、それに充てていましたが、筆者は、物理と数学の授業をあてたものでした。それらの勉強は、授業に出なくても自然の摂理で理解できるものなのだから、と粋がっていた思い出です。
雨が少し弱まってきたようです。その中に運動会の放送の声が響いています。

議員定数の削減

2015 年 5 月 15 日

昨年末に実施された衆議院議員選挙は、争点のない唐突な解散によって行われたものでした。そのいきさつを考えれば、正しいことであったとはいえません。そのうえ、議員定数を削減すると公言していた話をどこかに飛ばして、与党が安定多数を得られるうちにと、無理矢理行われたものでした。日本の国が、国民が選んだ「選良」と呼ばれるべき人たちによって構成された議会の決定で運営されるべきものであると、憲法に書かれていますが、その入り口のところでも、重大な憲法違反を犯しています。すべて、このような強引な形で国の動きを決定していくことに、大多数の国民が、「まさか」「まさか」と思っているのですが、いつの間にか閣議で怪しげなことばかりを決定しています。国民全体の議論にさらすことなく、アメリカの議会で安保法制を夏までに決めますから、と言い放つ首相の頭の構造は、信じがたいものです。そして、前述の議員定数削減のことなど、平然と破っているのですから。
隣国とのエチケット外交さえままならない人が、世界の安全に寄与するために軍隊を動かそうとするなど、滑稽な話です。ただ滑稽だけならそれで済みますが、そのような動きを進めるために、税金の多くを軍事関連に振り向けていこうとしています。野党は、もっと原点に返って、与党勢力が行おうとしている話の問題点を明確に指摘しなければいけません。維新を掲げていた党が、その看板にふさわしい政策立案をするのではなく、タカ派を気取って、声だけ上げているようでは、国民は置いてきぼりを食らってしまうでしょう。
景気回復はこれしかない、とデフレ脱却を狙った政策は、実質的には目的を達することができずに、大企業栄えて国民沈む、の経過をますます進めるばかりです。少子化対策には、社員の正規雇用を増やすことが何よりだ、と言っていた副総裁は、いつの間にか黙ってしまっています。
こんな人たちに、「国」の将来を語ってほしくないと思わせることばかりが、聞こえてきて、愉快でなくなるのは、暑さのせいだけではないのです。

集団的自衛権の覚悟

2015 年 5 月 14 日

昨年の閣議決定を受けて、現在安保法制の制定に向けた議論が、国内の一部だけで進められています。その内容は、昨年集団的自衛権の行使が必要と議論されていた範囲を、大きく上回ることになってきています。これは、ある意味当然のことで、非常事態が起こるとすれば、という議論はいつでも同じような議論をたどるものです。今行われている議論が、大正時代にあったシベリア出兵と、その後の撤収策が議論された話と相似形であると、たまたまある番組を見ていて強く感じました。兵力は、安全への保険みたいなものなのだから、と自衛権行使を主張する立場の人は言います。一方で、その保険が結局暴走して国民を苦しめた過去を思えば、安直に集団的自衛権行使を口にすることさえならないことなのだ、と議論はかみ合いません。
しかし、科学技術の発展の結果、戦争行為が常に総力戦の形となって、大量破壊兵器の使用が前提となってしまった保険を、世界ほとんどの国が採用しています。ということは、すべての戦争行為が始まると、勝敗にかかわらず、それを行った国家は国際法を犯している、という矛盾をはらむことになります。保険なのか、破滅への助走路なのか、政治家はもっと深く思いを馳せなければいけないと強く思います。現在まで進められてきた与党内協議では、このような覚悟を全く自覚できていないと感じます。とくに、紛争を話し合いで解決する、という姿勢を放棄しつつ、この議論にだけ邁進する人たちが、わが国の将来にどれだけのことを考えているのか、疑問です。
人は愚かなものですから、いさかいが絶えない、ということも、過去の歴史を振り返れば納得いくことですが、だからこそ、将来に対し何が本当に大切なのかを、もっともっと深く考えなければならないのです。

登録再生利用事業者

2015 年 5 月 11 日

食品リサイクル法は、食材として提供されながら、人の口まで届かなかったものを、肥料化したり、飼料化したり、あるいは、エネルギー回収するなどの方法で、役立たせようとするものです。従来の焼却炉へ持ち込んで処分すれば良い、との考え方とは異なる発想で対処しようとするのです。この食品リサイクル法の目的の一つは、食品を無駄に捨てることを抑えようとするものでした。もうひとつは、食品が持つ特性である、他の栄養になる、エネルギー源となるという性質を生かし切ろうとするものです。その背景には、20世紀のわが国が「大量生産」「大量消費」「大量廃棄」を基調とした形で発展を遂げたことへの反省があります。ですから、20世紀の時代運営であった「経済成長」を基盤とした明日を創っていくという考え方に固執しているほとんどの政党の指針とそぐわないところがあるのです。20世紀を反省した法律の一つが、「環境基本法」なのですが、国会や諸官庁は、この法律を作っていながら、魂を入れる努力に欠けていると言われても仕方ないところがあります。
食品系の廃棄物を、肥料化したり、飼料化したりする事業者は、農林水産省と環境省に届け出て、適切であると認められれば、登録再生利用事業者となることができます。その登録再生利用事業者は公表されています。ですから、食品を扱う事業者で、食品廃棄物を循環利用させたいとの思いを持った人々は、これらの登録再生利用事業者と相談して、循環系に加わることができます。ところが、当初期待されていたほど、登録再生利用事業者の活動は活発になってきていません。従来からの焼却場に持ち込む処分法が存続していて、こちらで処分してもらう方が割安であり続けているのが、その一つの理由です。他の理由として、せっかく堆肥を作ったものの、利用してくれる農家と結びつけなかったりという例もあります。それより以前に、生ごみを堆肥化する過程で悪臭を出してしまい、施設が周辺から苦情を受けて、操業を止めてしまったところもあります。
法律を作っても、それが世に中に浸透していくには時間がかかります。時間が過ぎていくと、最初に持っていた志がどこかに消えてしまうこともあります。
本当は、世の中全体で環境基本法の理念を再認識することが必要なのだと、強く感じています。

大型連休

2015 年 5 月 9 日

今年の暦は、祝日の並びの関係で、ゆっくりと休めた人が多かったようです。これは言い間違いで、職場をたっぷり休めた人がたくさんいた、と言い換えるべきだと指摘されそうです。なぜなら、職場への出勤義務が少なくなったからと言って、家族と一緒に行楽地に引きずり出されて疲れてしまった、というお父さん、お母さんが沢山いたことに気づかないと、正確ではないというのです。たまたま、今年の連休期間中に、高速道路を利用してしまいました。昨年は高速道路に乗らずに行った先を今年もナビで出したのに、なぜか今年は高速道路に導かれてしまいました。たまたま、乗った区間がが短かったので、それほどぐったりするまでにはなりませんでした。それでも、良く言われる、家族サービスで疲れ果てる親たちの苦労を少しだけ味わったのでした。
首相は、アメリカを訪問し、立憲主義をとるわが国の議会人としては発言してはならないようなことを、一杯しゃべってきました。もうこの人にはルールを説く人はいなくなってしまったのでしょうか。それとも、圧倒的議席数を有していれば、手続き論など取るに足らないと思ってしまっているのでしょうか。昨年暮れの突然の解散で得られた議席数を、そのように考えてしまっている驕りは、日本国債のエックスデーを迎えて、突然絶たれることでしょうが。一番大きな問題は、錯覚に陥っている首相がこの国をミスリードしていることに、同じ党派に居る人たちが責任を感じていないことです。現在の与党が、いったん下野して苦しんだ結果、奇妙な一致団結を示しています。その結果、国会が議論の場ではなくなってしまいました。以前、本欄でも取り上げた首相の野次など、昔であったらとても考えられないことなのです。
そして、大型連休が過ぎると、アメリカからあのオスプレイという大型輸送機を購入することが、これまた既定の話のように伝えられてきます。ヨーロッパの諸国やイスラエルが、検討はしたけれど、コストがかかりすぎるとして購入しなかったものを、アメリカへの隷属の条件であるかのように購入するというのです。これから将来、わが国をどのように導けるというのでしょうか。
議論を避け、数の力だけでことを決めていくのはもうやめにしてほしいものです。

火山性地震

2015 年 5 月 7 日

関東地方の有力な観光地である箱根。そこの大涌谷は噴気が上がり、その噴気で茹でた卵が名物になっています。ところが、この大涌谷で火山性地震が観測され、頻度が上がってくる状況となりました。そこで、立ち入り制限に結びつく火山情報が出され、大型連休の最後の頃は、せっかくのかきいれどきがという論調の報道もなされてしまいました。しかし、昨年秋の木曽御嶽の火山災害を思えば、このような慎重な警告が出されるのは当然なことです。しかし、自然災害が起こる可能性は、100%というものはありませんから、予測が空振りになることも、あって当然なことなのです。空振りになってしまった結果、商機を失わされたとしても、誰にもあたるわけにはいかないのです。自然の中で生きているというのは、そういうことなのだと考えさせられます。
筆者は、先日噴火が続いている熊本県の阿蘇山の近くに行きました。以前、穏やかな時期に訪れたときは、火口を覗ける場所まで行って、記念写真を摂ったものです。今は、火山情報が出されて、河口近くには近づけなくなっています。そんな事情が、火山にはつきものです。遠くから噴煙を見ると、生きている大地が感じられます。同じ九州の桜島は、もう少し活発な活動を続けています。あれだけ火山の近くで、灰が降る被害があっても、鹿児島市の人は、それほど苦にもしていないように見えるのが不思議です。
でも、火山の本当に大きな規模の噴火は、現在見ている阿蘇山や桜島のものなどとは比べ物にならないものだと、過去の調査の中から言われています。4年前の東北大震災と同等の地震は、1000年前にも起きたことが、調査研究で報告されていましたが、地震学者はなぜかそれを現実のものから遠ざけていたのでした。大規模地震が盲点に入っていたのでした。自然災害を予測することの難しさと、適切な対処の仕方を、私たち人類は、まだマスターできていないということなのでしょうか。恐れすぎれば「杞憂」と指摘されてしまうかもしれません。どこかの政治家は、国土強靭化対策との名前で、土木業者に税金を還元するだけのことを考えたこともありました。
もっと、スマートな自然との付き合い方を知る必要があるようです。