まさか日本で

2016 年 7 月 26 日

海外からテロのニュースなどが伝えられても、それはあくまでも海外で起こってしまった恐ろしい話として聞いていました。このところ、無差別銃撃、刃物による大量殺人、などの話が海外で増えてきても、やはりそれは他所の話として聞いていました。ところが、今朝伝えられている神奈川県で発生した、障碍者施設での刃物による大量殺戮事件は、とても信じられない話が起こってしまったと感じています。事件の背景など伝えられていないことが多い中での推定からですが、今の世の中が抱えてしまっているある種の「おぞましさ」が発現したのではないかと思っています。加害者が若く、この施設で働いていた前歴があることが、そのおぞましさの原因の一つです。障碍者施設は、普通では自己主張はしないおとなしいものとして周囲には受け入れられています。この加害者は、そこで働くことを選んだ過去があったがために、施設利用者に対する加害行動をとったと考えられます。そのことが、社会の病巣なのだと感じるのです。現在の若い世代は、一見とてもおとなしいように見えます。だからといって、心が平穏であるとは限らないのです。これも推定ですが、この加害者が障碍者施設で働いたのは、強い使命感からではなくて、自分の周囲に勤務する場所が他になかったから、という受動的な選択だったのではないでしょうか。そこで働いた体験は、彼にとって決して心地よいものではなかったのでしょう。2月に退職した後、施設に対する復讐心などが芽生えてしまったのではないでしょうか。弱いものが、自分より弱いものに矛先を向けてしまうのは、残念ながら世の常なのです。それが、障碍者施設の利用者であったことは、堪らなく情けない話です。
このことと簡単に結びつけるつもりはありませんが、この病巣の原因の一つが、「新自由主義」と呼ばれるわがままな振る舞いを許す風潮なのだと思います。勝ち組、負け組などと世の中で烙印し、結果として弱者に組み込まれたものの絶望感を発散する手立てがないのです。その結末の一つが、今朝起きてしまった障碍者施設の大規模殺傷事件なのだと思います。
このような事件が起きると、ほとんどの場合、本質への対策を立てることなく、その周辺の弱者にしわ寄せをしておしまいにする、というわが国の対応のいい加減さは、今回はしてほしくありません。

泥仕合

2016 年 7 月 24 日

今回の東京都知事選挙は、前任者の辞職のいきさつからも、本当であればもっと誠実さがにじみ出てくる選挙の進行になってほしいものでした。ところが、どの政党も勝ちたい思いばかりが先行して、実際の選挙戦は泥仕合の様相を帯びています。言い換えれば、争点を掲げる力をどの政党も持てていないということです。実際には、争点として挙げる事項はたくさんあるはずです。例えば、知事が過剰に裕福な海外視察がなぜできてしまうかと言えば、東京都の財布が豊かだからです。それなら、その豊かさを都民のために反映させる政策を議論する素材を都民に提供して、だからわが党はこのような選択を行う、という話にしていくべきです。場合によっては、天災で苦しむ他の自治体支援のために、都民とともにこのような活動を行いたい、という政策提案であっても良いと思います。そのような、財布の中身だとか、現状分析だとかを積極的に進める能力が政党に欠けているのではないかと疑っています。本来であれば、その分析力と提案力こそ政党を支える力のはずなのですが。実際には、予算のおこぼれが欲しくてたまらない怪しげな人々(本欄では「政治ゴロ」と呼んでいます)が政治家の周辺に渦巻いていて、それらのいかがわしい活動に力を吸い取られているのが、現在の政党のようです。情けないことです。心ある都民は、今回の選挙の機会を使って、政治ゴロをたたき出す決意を持つべきでしょう。野党こそは、政治の不透明さを解消する提案をしていくべきです。東京都の財布が豊かだからと、それにたかろうとしていた政権側の汚さなど、挙げるべき事実はたくさんあるはずです。
それにしても、この醜い選挙戦線を少しでもまともにさせようとしない、報道機関にもげんなりさせられます。表面的な候補者同士のマイナスキャンペーンや、確証がない古傷探しの上では、納得ある選挙が展開されるわけがありません。ワイドショー型の選挙とはこんなものなのかもしれませんが、この程度のことを繰り返していけば、世の中のゆとりは無くなってしまうことでしょう。政界にいると自負している人たちが、もっと謙虚に人生を考え直してほしいものです。

ロシアの参加が難しくなった理由

2016 年 7 月 22 日

前回も書いたとおり、リオオリンピックの陸上競技部門に関しては、ロシアの参加は不可能な事態となりました。この状態を招いた後も、ロシアの中から、「潔白な選手の人権はどうなるのだ」という疑問が投げかけられています。しかし、本来ドーピング疑惑の解明に当たらなければならないロシアの機関が、全く反対の行動をとったことが明らかにされてしまった以上、もう議論の余地は残されてはいないのでしよう。もちろん、だからロシアの陸上競技選手すべてがドーピングに汚染されている、などという話ではありません。ロシアの国家が認めた機関が世界に対し裏切り行為を行ってしまったことが最大の問題なのです。再三書いていますが、スポーツが持つべき本来の爽快感を覆してしまうような愚行です。そのような行為に走らせた原因が、東西冷戦時代の国家運営方針ではなかったのか、と疑ってしまいます。そうなってくると、ドーピング疑惑に対するロシアとしての浄化能力にも期待が持てなくなってしまうのです。情けない話です。これから暫くは、このようになってしまったことに対して、様々な国の様々な立場の人がコメントすることでしょう。一番の問題は、それらのコメントの中から疑惑の払拭に向けての提案が出て来ないことではないでしょうか。国と呼ばれるものが、人の思いを裏切る、ということがどれほど深刻なことなのか、ロシア大統領は深く考えるべきです。大統領のメンツがつぶれるだけではありません。人の思いの根源を裏切ったことですから、簡単には消すことはできないでしょう。
ドーピングが持つ「アンフェア」な発想は、スポーツの目的とは全く反対のものなのです。ところが、世界の中で大国と呼ばれているロシアが、その誘惑にはまってしまっていたのです。それが、歴史の繰り替えしの要素があったにしても、許せないことです。アンフェアな行為が世界の標準になってしまえば、話し合いなど無駄なことだと言い出す大統領が、どこかの国に生まれてしまうかもしれません。世界全体が冷静になって、落ち着きを取り戻してほしいと願っています。

ロシアのドーピング問題

2016 年 7 月 20 日

前回の本欄で、東京オリンピックを酷暑の時期に行うことの問題点を指摘しましたが、それよりももっと大きな課題が国際スポーツ界に投げかけられています。ロシアが国を挙げてドーピングの実行と探索妨害をしていたことが明確に報告されてしまったのです。遠い昔、東西冷戦時代には、東側諸国が組織的なドーピングをしていたと疑われてはいましたが、今回発覚した事実は、それ以上におぞましい話です。そもそも、東西冷戦時代のドーピングが、競技力の向上より、選手の声明に危険が及ぶからと問題になって、現在のようなドーピングチェックがされるようになったのだと聞いています。すなわち、ドーピングが、競技力の向上をもたらすという不公正さだけでなく、選手に健康被害を与えることに問題があると言われていたのです。現在行われているドーピングが、選手の健康にどのように影響するのかは承知してはいませんが、このような歴史を振り返れば、国が選手にドーピングをそそのかすことなど、もってのほかと言うよりほかありません。ロシア大統領は、今回の事件の真相を明らかにするとともに、国の機関が関与していたことをもっと深刻に考えるべきでしょう。前回にも指摘しましたが、メダルの色や数にこだわる為政者が多すぎることも問題なのだと思っています。
スポーツそのものが持つさわやかさや、与えてくれる感動が、このような問題によって失われてしまうことを堪らなく悲しく思います。勝利は目指していても、それ以上に自己を鍛えることなどに目標を置いて、スポーツと取り組んでいる人たちに対し、ドーピングの誘惑に安直にはまってしまった関係者は言い訳などできないはずです。
高校野球の都道府県予選が進められています。白球を追う球児たちが、純粋なスポーツマンで居続けてほしいと願っています。

この暑さとオリンピック

2016 年 7 月 18 日

2020年のオリンピック開催が、暑さきびしい時期に設定されていることに納得がいきません。1964年のオリンピックは、「スポーツの秋」である時期を選んで会期が設定されました。そのときの開会式になった10月10日が体育の日となったことは、今更説明する必要もないことでしょう。ただし、最近は、ハッピーマンデイと称して、祝日を無理やり月曜日に移動させてしまいますから、この大切なことも忘れられつつあるのかもしれません。リオオリンピックは南半球で行われますから、8月の会期でも問題は少ないでしょう。なぜ、この暑さが厳しい時期に、たぶん天気予報では熱中症予防が伝えられる時に行おうとするのか、その真意が理解できません。そのことだけでなく、オリンピックが商業主義に蹂躙されているのではないか、と疑われるようなこともあります。世界の平和の祭典を企画する資格がすでに人類にはなくなっているせいなのかもしれない、とさえ思います。言い換えれば、ある種目がオリンピックに採用されるかどうかにだけこれほど関心が向かうことも異常です。それぞれの世界選手権がそれなりに行われるようになっているのですから、もっとオリンピックの原点に還った思いが見えて来なければいけないはずです。経済成長のためなら武器輸出を平然と行うようになってしまったわが国が、平和の祭典であるべきオリンピックを開催する資格が本当にあるのでしょうか。周辺諸国に対し、儀礼的な訪問さえ行おうとせずに、こちらの扉は開いているのだから、などと強弁する人を首相に頂いている国がオリンピックを開催できるものなのでしょうか。
開催招致のために、ほとんどの日本人が「オヤッ」と思うような発言をした首相の下で、大丈夫なのでしょうか。メダル獲得にばかり関心が寄せられ、参加さえままならない国がこの地球上にあることを忘れてしまっている人たちが集まる東京オリンピックに、どうしても賛同しきれないのは、この暑さのせいだけなのでしょうか。

政治ゴロの排除を

2016 年 7 月 15 日

参院選の直後に東京都知事選挙が公示されました。今月いっぱいまた空疎な言葉が飛び交う時間が過ぎていくはずです。三代も続いて辞任してしまうような人を選ばされた有権者もねいい面の皮と言われそうです。しかし、この際敢えて指摘したいことがあります。それは、有権者と候補者との間で不可解で不愉快な動きをする政治ゴロの排除をしていかなければ、政界の浄化はかなわないということです。政治ゴロは、予算の獲得などの手法で利害関係者に近づき、議員たちの権限を使いながら、利益誘導を行い、議員たちにお金(きれいな言葉で言えば政治献金)や票を戻すことで生きています。そのやり方は、本人たちは政治を通じて世の中に役立っているかの錯覚さえ与えるものです。しかし、考えてみてください、甘利前大臣がいみじくも告白したように、「きれいごとだけでは政治はやっていけない」との主張に見られるとおり、このようなゴロたちがうごめくことで、残念ながら日本の政治が成り立ってしまっているのです。ゴロたちは、あたかも自分たちが政治の推進力であるかのような、これまた間違った認識を持っています。でも、所詮は金や名誉にたかる下品な人たちですから、そこからの発想は日本の将来の姿に寄与できるものはほとんどありません。そのくせ自分の口からは、日本の将来に役立っているなどと言っています。個人個人の思いで投票しなければいけない選挙が、これらの薄汚い人たちによって穢されています。
そのような政治の構造そのものに改善を促す気力が、もう報道機関には残されていないのではないかと疑っています。それでも、報道機関にいる正しい感覚の人から、この構造改善への提言が生まれてくることを期待しています。間違っても、政治ゴロのなれの果てが政治家でしかない、などと覚りすます報道機関の人間にはなりたくないものです。

参院選の結果

2016 年 7 月 12 日

盛り上がらない参院選、として先日本欄に思いを述べましたが、その「盛り上がらない」ままに、投票が行われ、新たな議席配分が決まりました。政権与党が、政策議論を盛り上げようとしない姿に憤りを感じました。そのような姿勢が露骨に見えただけに、結果としての議席数を論評する気にもなれません。本来であれば、政権与党は投票率の向上を望むべきはずです。自分たちが進めてきた政策が本当に国民のためになると信じているなら、それを評価してぜひ投票に行ってください、という思いがあるべきです。ところが、自分たちが抱えている基礎票だけが役立つようにするには、いわゆる浮動票が投じられない方が望ましいわけで、政策論争を避けて、論点がないとばかりに選挙の盛り上がりを封じたのでした。民主主義であるなら、選挙の機会に国民の懸案をもっと洗いざらいにして、制度設計と現実との隔たりなどを明確にする必要があるはずです。例えば、蓄えられた年金の資金が計画通りの運用益が挙げられなくなっているのに対し、どのような解決策があるのか、株式市場にその資金を投じ芽ことは正しいことなのか、などを冷静に議論するべきでした。瞬間的なプラスかマイナスかだけの結果ではなく、そもそもゼロサム世界である株式市場に投じること自体の是非を問うべきことなのです。また、消費税を社会保障の財源とする、と言えば、国民は無抵抗に賛成せざるを得ないはずだ、と考えてしまう議員たちの浅知恵に対しても、もっと究極的な議論の交換が必要なはずです。第一、税務に携わっている官僚たちが、このキャッチフレーズに対し、強い疑念を示している事実だけでも、国民に知らせて議論する価値があるはずです。ところが、これら争点とすべき(国民の近い将来、遠い将来にとって、とても大切なこと)をすべて包み隠したまま選挙戦が始まり、終わったのでした。
選挙が終わってしまえば、あとは勢力分布だけが関心亊で、本当に議論すべき事項は遠くに隠されてしまうばかりです。このようなわが国は、きわめて危うい事態に近づきつつあるように見えてなりません。民主主義のルールを無視して自分たちだけの主張を通そうとしている現政権の醜さを、報道機関はしっかりと暴いて、この迷走に歯止めをかける義務があるのです。

イギリスの検証

2016 年 7 月 9 日

国民投票でEU離脱を決めたイギリスが、2週間ほど後に、イラク戦争参戦についての検証結果を発表しました。アメリカ先導で行われたイラク戦争は、当初アメリカが指摘していた「大量破壊兵器」の存在が偽りであったことが伝えられる結果となって、わが国でも当時の判断が正しかったものか議論がありますが、全面的にアメリカと同一歩調をとったイギリスでは、当時の判断などに関して検証した結果を報告したのです。7年間にわたって、15万件の書類等を精査して、イギリスの判断に間違いがなかったものかを検証しています。わが国の場合、このような検証活動を正しく行う習慣がなく、少なくとも民主主義の入り口のところでイギリスよりはるかに遅れていることが判ります。あのイラク戦争の折、小泉首相は、国会の審議でずいぶんとぼけたことを言っていた記憶があります。しかし、考えてみれば首相官邸にはアメリカからの圧力がかかる電話回線が接続されている、と一般的に信じられていますから、あのとき以上の追及は行われることなどないのでしょう。それに比べると、イギリスは半端ではない検証をしています。当時の関係者からも事情を聞き取り、(当時の)ブレア首相の間違いを強く指摘しています。当然このような発表に対して、関係者からの反論もあります。反論を受ける自由さと、検証結果を発表する意思の強さには頭が下がります。
わが国では、つい先日までの都知事に対する糾弾は鳴りを潜めていますし、TPP担当大臣のいい加減さに対しても、まるで遠い話にしてしまっています。前にも触れたとおり、民主主義の未熟度が示されているかのようです。秘密保護法の必要性は理解できますが、それは、文書公開を前提のこととしなければいけません。どこかに闇を作って歴史を封じ込めるようなことは決して許されるものではありませんから。与党・野党いずれの政治家も、この原点を理解すべきものと考えます。

東京都知事選挙

2016 年 7 月 7 日

醜聞で退陣に追い込まれた後の東京都知事選挙は、来週14日に公示されます。政党はこの選挙を機会にどれだけ勢力を拡大できるかが関心のようですが、選挙民のほとんどは、誰が都知事になっても本当に変わることなどほとんどない、と半ばあきらめながら選挙戦を見守っています。肥大化した都市である東京都が、自治体としてどれだけ活性化した事業を行えるものか、確かに手を付けることなどできないのかもしれません。しかし、違う見方をすれば、大阪が大阪都構想を出してきたことを深読みすれば、東京都が東京都であることの良さをもっと発揮できる可能性がどこかにあるはずです。税収があるからこそ知事が大名旅行ができたのですから、その豊かさを都民に実感させる政策が出されれば、都民はノーとは言わないはずです。見かけは豊かと言われていても、どこか落ち着きのない都市になってしまっているとしたら、都民の心が安らかになる政策を打ち出すのも一つの方法でしょう。都会の中では、都民自身がスポーツをする機会はどうしても減ってきています。特別養護老人ホームの絶対数が不足して、待機老人が沢山いると言われているのも東京都です。ですから、それを手助けできるようなインフラの整備などは役に立つはずです。ところが、政党の動きは、単なる人気投票の上位に入れる候補者を選ぶところにだけ関心が集まっていて、都民のためになる施策を考えようともしていないと感じます。このような構造が、結局民主主義を破壊していく力になってしまいます。一票はいつでも一票に過ぎませんが、そこに託す気持ちを通じさせるのが政党でなければなりません。目先の利益誘導ではなく、都民全体の住みやすさが実現できるように、政党も有権者も変わらなければなりません。
参議院議員選挙と近すぎるタイミングの都知事選挙だけに、本来の都民のための訴えがないがしろにされてしまいそうです。

暑さがやって来た

2016 年 7 月 3 日

首都圏にも本格的な暑さがやって来たようで、猛暑日の名前が出始めました。じっとしていても流れてくる汗に、思わずうつむいてしまいます。夏はこれからまだまだ続くのだからと、慰めてみても、どうなることでもありません。電車に乗ると、乗った瞬間だけ冷房の心地よさを感じますが、そのあと降りたときの反動を考えると、この思いは瞬間的なことでしかありません。筆者が若かった頃は、電車に冷房が装備されていませんでした。精一杯窓を開けて、なんとか暑さをしのごうとしたものでした。窓から入ってくる風が救いとなっていたのでした。今では、冷房を使うことが当たり前となっています。報道の中でも、熱中症の予防のため、「適切に冷房を入れて」とのフレーズが出てきます。ある時期までは、冷房を入れることは贅沢である、との認識があったために、熱中症にかかってしまうお年寄りが多かったものでした。身体のことを思えば、贅沢などとは言ってられないのでしょう。しかし、格差が拡大してきた今日、冷房を入れてと言われても、その装備が整っていないお年寄りが増えてきているのではないかと心配しています。幸い、筆者の家には装備されていますが、なぜか就寝する部屋にはありません。同居する孫からは、つければ良いのに、と言われますが、なぜかやせ我慢のように、装備する気になりません。この家に越してきてから27年、寝苦しい夜に馴れるようにと修行しています。
今年の厚さが、この修行する心をくじけさせてしまうでしょうか。それとも、今年も乗り切ったと秋を迎えられるでしょうか。自分のことでありながら、なぜか客観的に見ています。秋の涼しさと、虫の声が聞こえてくる頃まで、寝返りの数が増え続けることでしょう。そして今日、台風1号が発生しました。これまでで二番目に遅い記録だそうです。遅かったから被害をもたらす台風が来ないわけではないと、警告もされています。首都圏の水がめが適切に溜まってほしいと思っていますから、被害はない程度の台風の接近を期待しています。
ああ、暑い夏です。