シリア停戦

2016 年 9 月 24 日

シリアにおける内戦は、勢力の分布が判りにくいだけでなく、アメリカ、ロシアの二つの大国がそれぞれある勢力に肩入れしているために、余計に不透明な動きに見えます。難民を発生させる行為をしていながら、難民の支援は人道的に捨てておけない、とする両大国の主張には、馴染めないものを強く感じます。そのうえ、この内戦では、ロボット攻撃なども用いられているようですから、「誤爆」などの指摘に関しても、正しい評価が行われにくいところがあります。代理戦争の様相を示すだけでなく、超過激なイスラム国を名乗る集団も内戦の中にいますから、本当の敵は誰かが判らないままの戦闘状態さえあるのかもしれません。いずれにしても、戦いを続けていることは、難民を増やし続けていることでもあるのですから、大国と呼ばれる国々の自制が強く求められます。このような行き詰まり感が強い戦いが、どのような形で終焉に向かえるのでしょうか。国連も、期待される役割を果たすことができないような状態に見えてしまいます。
無為な戦いを行い、難民を急増させ、そのことが地球全体の安定感を失わせているのだとしたら、人間はなんと愚かなことに力を注いでいるのでしょうか。愚かというだけでなく、その陰ではどれほどの悲しみが生まれているのでしょうか。世界全体が幸せにならない限り、個人の幸せはない、という賢治の言葉を思い出します。複数の人間がいれば、好き嫌いが表に出ることは避けられないところがあります。しかし、その好き嫌いが、取り返しのつかない殺人などにつながらないよう、人は自制することを覚えてきたはずです。ところが、最近は、人の命を粗末にしてしまう風潮が強まってしまっているのではと疑っています。平気で人を殺してしまう世の中は、どう考えても異常です。その異常を当たり前のことと受け止めてしまうほど繊細さを欠いているのではないかと、アメリカとロシアが会議の席で応酬している場面を見て感じました。
人として、もう少し原点に還って話し合いをしなければ、どうしようもないところまで行ってしまうようで恐ろしいことです。

台風の新鮮さ

2016 年 9 月 22 日

今週日本列島を襲った台風16号は、各地に爪痕を残して東の海上に抜けて行きました。最初に上陸した鹿児島県など、土砂災害が起こって、集落へ続く道が途絶えてしまった場所が見られたりしましたが、全般に被害が抑えられた印象を持ちました。ただ、報道関係者の理解の不足などが一部に見られたのは反省することだと考えられます。台風の進路に関し、予報円が描かれます。これは、どこに行くのか定まらないので、円が大きく描かれているのに、すべての範囲に被害が及ぶかのように解説してしまう人がいました。予想円は、あくまでも台風が進む可能性が高い範囲を表しているのであって、円全体を台風が通るわけではないのです。相手は自然ですから、思わぬことが起こるかもしれません。それを慎重に予想円で表現しているのです。可能性があるので、対策を取る必要がある範囲、と認識してほしいのです。もうひとつ気になることがありました。台風が日本近海まで発達をしつつ襲う例が増えています。近海の海水温が高いからですが、それだけ警戒が必要です、と伝えることは当然大切です。しかし、一旦上陸して被害を与えるようになると、これも自然のこととして、台風は衰えていきます。陸上ではエネルギーを得られなくなるからです。したがって、被害予測なども、台風が衰えていくことを前提に伝えることも大事なことです。今年北海道や東北で被害が大きかったのは、台風が衰えないまま襲ったためでした。東北に上陸する台風は極めてまれなことですが、そのことの持つ重要性が、視聴者に伝わっていなかったかもしれません。報道関係者に、その意味が理解できていなかったためではないかと疑っています。岩手県の岩泉町など、今年のような台風に襲われた経験がありませんでした。あの強い雨が降ることが、どれほどの災厄になるのか、初めて知ったことでしょう。グループホームで生活していたメンバーにも、一気に浸水してしまうことなど考えられなかったのではないかと思います。
今年の前半は台風が一つも発生しないという珍しい年でした。また、やってくる台風のコースも、今までに経験したことがないようなものが含まれていました。その中で、台風が『新鮮』であることの恐ろしさや、事前の準備の大切さなどが、改めて理解できました。これらのことを正しく報道機関が伝えてほしいと思っています。理解できないような、ただ恐れろ、というような伝え方だけはして欲しくないのです。

パラリンピック終了

2016 年 9 月 20 日

障害を持つ人たちのスポーツの祭典であるリオデジャネイロのパラリンピックが終了しました。次回は、2020年に東京で行われることになります。今朝の新聞記事に、日本が金メダルを獲得できなかったことに対する総括が掲載されていましたが、とても違和感を覚えました。オリンピックの場合にも、結果をメダル獲得数だけで評価する記事には反発を感じます。それ以上に、パラリンピックの場合、総出場者が少ないことや、ハンディの公平性の保障などに課題もあって、単なる記録の競い合いだけしか結果を評価できないようでは、本来の目的から外れていると思うからです。もちろん、出場する選手が記録の向上を目指し、勝利に向かって努力することは、賛成できることです。そのことと、報道機関などが、結果の評価がそこにとどまっていていいこととは別です。このような大会を経験することで、障害者の社会参加の大切さをもっともっと知ることが大切で、自身の身の回りでどのようなことができるのか、スポーツに限らず考えて実行に移すことが求められます。本当に大切なことは、そのようにして、社会全体が多様な条件の中で人が生きていることを理解し、受け入れ、発展させていくことです。残念ながら、報道機関の姿勢からは、このような発展への道筋が見えてくるものがあまり見られません。記者と呼ばれている人たちは、世の中のエリートとして育ったために、障害者の社会参加に対する思いの共有に少し弱いところがあるのかもしれません。エリートである記者の方々に、障害者の社会参加を考えてもらう契機として、このたびのパラリンピックを思えば良いのかもしれません。
もうひとつ、メダル数偏重の裏には、かつての東欧諸国が国威発揚のためとして、メダル獲得になりふり構わない姿勢となって、その結果の一部がドーピング問題として今日にも残っています。このような過去を正しく総括することもとても大切なことです。東京オリンピックが1964年に開催されたころは、アマチュアスポーツの祭典と言われていました。現在では、アマチュア選手と呼ばれる人がほとんどオリンピックからは排除されてしまいました。果たして、この傾向は望ましいことなのでしょうか。筆者には、マラソン日本の凋落と、この傾向とが相似形に見えてならないのです。

就学支援金

2016 年 9 月 17 日

ある高等学校が、就学の実態がない生徒を在籍させて、国から就学支援金をだまし取る事件が伝えられています。当初、この学校の授業内容があまりにもお粗末というか、言い逃れでしかない内容であることが、面白おかしく伝えられ、そちらの方が国民の関心を奪ったかもしれません。お釣りの計算をしたから数学を学んだ、とか、洋画を観たから外国語を学んだ、という理屈を言い始めれば、一年中授業を受け続けていることにもなります。この学校の理事会メンバーの「学業」に対する率直な思いを聞いてみたくなります。
それよりも、就学支援金制度が制定されると、直ちにこのような不埒な行為が行われてしまったというところに、わが国の現状を強く嘆きたいと思います。先日から数回取り上げた「政務活動費」の不始末と共通する問題があるからです。いったん集められた税金が、正しく使われているかどうかは、会計検査院などが目を光らせているから大丈夫だろう、と多くの国民は考えているかもしれませんが、決してそのような簡単な問題ではありません。例えば、政務活動費の杜撰な管理状態が見破られたのは、このような公的監視機関の成果からとは聞いていません。税金の正しい使い方ができない人たちが議員に選出され、見つからなければ、という薄汚い根性で取り扱い、露見したとたんに「不徳の致すところ」などと述べてみても、改善の方向性さえ見えてきません。政務活動費のいい加減な使い方と、本来は教育者であるべき人が犯した就学支援金の詐取事件とは、とても似ているところがあるのです。そして、そのことの問題については、国民全体がもっと厳しく自覚しなおさなければならない問題があると、筆者は感じています。
参議院選挙の前に配られた3万円、最近配られるという1万5千円のバラマキの財源は、税金です。確かに、所得格差の不均衡是正の趣旨は認められますが、このように税金をバラマク体質は、政務活動費や就学支援金の不明朗支出を解明する力を弱めてしまいます。違う言葉で言えば、いったん集めた税金の使い方はお上が勝手に決めるものだ、という国民全体の思い込みが、問題の根っこにあります。少なくとも、そのような思い込みが生じないように、議会のあり方(国会から市町村議会まで)に注意していかなければならないのです。そのような場所に、政治ゴロと呼ばれる怪しい人間が生息しているからです。政治ゴロの一面は、補助金泥棒の側面でもあります。

政務活動費問題

2016 年 9 月 14 日

今北陸の県庁所在地の市議会が揺れ動いています。与野党問わず、政務活動費を正しく実行されていなかったことが発覚したからです。先日の小池知事に求めたいこと、として掲げた事項の中に、地方議会議員は原則ボランティア型で対応するものに変えていくことを挙げました。そうでなくても、決して裕福ではない地方自治体にあって、議員を養っていくことは大変なことです。そのうえ、支給される政務活動費を、支給されるのは当然だからと、目的外に流用したり、架空の領収証でごまかしたり(これはどう見ても詐欺ですね)、するような議員が出てきているのです。このような人格の人が、税金の適正支出を審議できるとは、とても考えられません。地方自治体が目指すべき「住民福祉の最大化」など、とても無理だと思われます。そのうえ、このような自治体の不祥事が出てくると、それ見たことかと国の干渉がより強まってしまいます。地方自治体だろうが、国だろうが、志の低いものが跋扈できる構造が問題なのです。それを防ぐための一環として、ボランティア型議員に代えていくことは有効な策だと、筆者は考えています。地方議会のドンと呼ばれるような存在があることも問題です。怪しげな政治ゴロと、予算獲得ブローカーとを牛耳って、この世を操っていると思い込んでいる者たちを排除しなければいけないのです。
筆者は、この構造は、決して地方議会の議員だけでなく、国の大切な議会を占めているメンバーの中にも存在していると疑っています。その根拠の一つが、TPP交渉担当大臣が睡眠障害に至った現象の中にもあります。「正しい人たちとだけ付き合っていては、議員にはなれない」という告白には、その怪しさがにじみ出ています。筆者が小池知事に期待していることは、このような怪しさを政治の世界から追い出すことなのです。間違っても、劇場型政治を誰が行うか、などという末梢な課題ではないのです。たぶん、政治ゴロの多くは、今なら誰に付けば得票が得られる、などと考えていることでしょうが、そのような連中をいなくなるようにすることこそ、求められているのです。   

豊洲移転問題

2016 年 9 月 13 日

新しく東京都知事になった小池さんに、やってもらいたいことなどを先日本欄で取り上げました。その内容はまったく今でも変わらないことですが、築地から豊洲への市場移転問題は、どうも単純な延期だけでは済まない様相となってきました。東京都が、専門家に委ねて、安全を確保するための工法などを検討し、そこで得られた方向性と明らかに異なる工法が実施されていたことが明らかになったからです。この変更が、より安全性を高めるためだったと、誰もが納得できる内容であれば許される範囲かもしれませんが、筆者のような素人でも、そのような改善策ではなく、思いつき型の変更であったように感じられます。二つの委員会を設けて検討して行われた結果がこのようなことでは、東京都という「公」の権威が全くなくなってしまいます。そして、このような結果を招いた原因の一つは、前回本欄でも指摘した、不透明な決定メカニズムの存在があります。税金を使うことに対し、関係者はもっと謙虚に恐れるべきだと思います。どうせ税金なのだから、などと間違っても口にしてはなりません。反対に、都民が収めた税金なのだから、都民の福祉の最大化を図る選択と実行が求められます。ところが、その決定機構などに、政治ゴロと呼ばれるいかがわしい人間が出入りしているのではないかと疑われます。今回の市場の、安全性確保に対する設計変更は、そこまで至ってはいないでしょうが、怪しげな人がいることに変わりはないでしょう。
特に今回は安全性を確保しようと4.5mの盛土を提案されていながら、これを変更していたこと、問題視されていなかったなら頬かむりを決め込んでいたであろうこと、を思うと都政に対し、暗澹とした思いしか浮かんできません。もちろん、遡って、豊洲を食品流通の場所に選択したことにも納得しきれないものを感じています。様々な意味で汚染が進んでしまった東京の中には、ほかに候補地がなかったのかもしれません。だからといって、当時もっと望ましい考え方があったのではないかとも思います。
新都知事には、これからも怯むことなく、問題の透明化を進めてほしいと思います。怪しげにうごめく政治ゴロの暗躍を許してはなりません。それらの政治ゴロの言いなりになってしまう議員が存在しているなら、そのことを明るみに出していくべきでしょう。
間違っても、オリンピックの道路のためだからと、今回の問題を脇によけてはいけないはずです。

障碍者スポーツを優しく見よう

2016 年 9 月 11 日

リオデジャネイロでのパラリンピック競技が続いています。国を代表して参加している選手たちは、それぞれにたくましく頑張っています。ところが、報道の姿勢が、どうしても獲得メダル数に偏っているように感じられて、もうひとつすっきりしません。障碍者の中で、スポーツに向ける力を得ている人は、実はとても少数なのです。その人たちがハンディキャップを乗り越えて躍動する姿はとても感動的ですが、成果をメダルの数で競うような方向にしか、伝えようとしていない報道陣には同調できません。また、安直なお涙頂戴物語に仕立てられた話も聞きたくありません。ほんの少ない人たちが、スポーツに燃焼できていることの素晴らしさと、その背景にはままならない人生を送っている圧倒的多数の人たちに、日々の人生をどう充実させることができるものか、という問いかけを健常者総てがもっと持つ必要があるのだと思います。4年に一度の祭典のときだけ障碍者を理解しているふりをするだけの視聴者であって良いはずはありません。
障碍者スポーツを応援することの大切さは、スポーツ以外の場でのびやかな生活が行いにくい障碍者の日常の改善を、社会全体が心がけていくことの大切さを改めて求めているはずです。そのような思いが基調として現れている番組でなければ、パラリンピックを中継する資格はないと筆者は強く思うのです。現在のところでは、ほんの少数の人たちだけしかスポーツを味わう機会がないのが事実ですけれど、少しでも多くの障害者の方にスポーツを行うことのさわやかさを感じてもらえる世の中にして行こう、というメッセージが、勝負の伝達以上に番組から感じられることが大切なことなのです。ですから、これらの番組のディレクタを務める人たちは、日常的に障害者理解を心がけておかなければいけないはずです。そのような世の中の構成に代えていくことこそが、世界全体に求められていることなのです。戦争をロボットに代行させることなどを考えるより、よほど大切なことなのです。世界全体の平和と差別の解消を皆で考える機会として、パラリンピックを見てみたいものです。

小池知事が求めるべきこと

2016 年 9 月 9 日

東京都の新しい知事に就任した小池知事が、築地市場の移転延期とともに、知事報酬の半減を進めています。そのこと自体はとても納得がいくのですが、それ以上に発議してほしいことがあります。それは、自治体の議員のあり方を変更して、基本的にボランティア活動に向けていくことです。議員になれば一定の報酬のほかに、議員としての活動費などが与えられる、という前提があるために、生活や名声など、議員としての使命を考える前に、不純な動機から立候補する人が絶えません。このことと、議員になれば多額な予算の配分に関与できる立場が得られると思われるために、利権を求めて議員になろうとする者か多く見られるのです。このような構造は、とても不健全ですし、地方政治本来の目的である、住民福祉の最大化が実現できなくなっています。筆者の体験では、このような世界に跋扈しているのは、政治ゴロと呼ばれる怪しげな人たちです。国会議員である甘利前大臣がいみじくも語っていたように、「正しい人たちだけと付き合っていては当選などできないのです」との言い訳のように、正しくない人、悪い人が、沢山うごめいているのがこの世界なのです。知事として改革すべきは、このような構造の排除です。どこかの県会議員が杜撰な管理が露呈した時、号泣した事件がありましたが、議員としてふさわしくないと思われる人たちがうごめく構造はなくす必要があります。政治ゴロや、その周辺にいる予算獲得ブローカーなど、悪賢い人間の存在が、どれだけ自治体を蝕んでいるのか、そのところを明らかにして改善策を打ち出していけば、その劇場型政治に対しても喝采が得られることでしょう。もちろん、さまざまな法律や条例がありますから、簡単なことでは実行できないでしょう。でも、投票する庶民を味方につけることさえできれば、思わぬところまで到達できるのではないかと、筆者はひそかに期待しています。
待機児童の問題に関しても、器を作ることももちろんですが、関係する人たちの処遇に配慮して、安定した保育施設を充実させなければなりません。保育施設は、利用する人たちにとっても充実している必要がありますが、そこで働く人たちにとっても安心感のあるものとしなければいけません。待機児童の数だけに惑わされて、その数値をゼロに近づけることだけに必死になるのではなく、将来にわたって、次世代が育まれ続ける橋ができることこそ大切なのです。

マイナス金利

2016 年 9 月 7 日

2月と8月は、私たち庶民の普通預金に利息が付加される月です。近年の低金利時代、通帳を見ても、何かの手数料にも満たない金額ではありますが、それなりに利息が記帳されていました。ところが、この夏、あれ何も書いてないや、と思われた人もいるのではないでしょうか。そうなんです。四捨五入しても、数字に表れない程度しか利息が付いていない場合があるからです。このような低金利にすれば、庶民は預金などしないで、せっせと消費してくれると日銀総裁は考えているのかもしれませんけれど、反対に、利息が付けられるくらいまでは預けようと思うのが庶民の発想なのではないでしょうか。それにしても、このような現実は、蓄えた資金の運用益を前提とした年金の制度設計を揺るがすものであることは間違いありません。というより、これだけの低金利を実行させるのであれば、その他にも社会の中にたくさんある運用益取得を当然視した制度に対し、それらを不可能にさせてしまっていることに対し日銀総裁は説明し、保障する義務があるはずです。直接の義務と言わないまでも、通貨の番人であるという責任は、そういうことなのです。瞬間的な通貨安政策を「アベノミクス」などと称えて、その一端を担っているつもりであることは、本当はとても許されないことなのです。デフレ脱却という目標はある程度認められたとしても、現在のような通貨安政策だけで行き詰っていることは、歴史に対し恥ずかしいばかりのことなのです。ほとんどの報道機関は、このような非を指摘しようとさえしません。議論さえ起きませんから、首相にしても、日銀総裁にしても、脱却するための手法さえ考えられなくなっています。いずれ、通貨不安が起きたときには、それの引き金になったことを非難するだけで、(例えば、イギリスがEUを離脱したからとか)自分たちが行ってきた諸政策の持つ絶対的な無理を認めようともしないのでしょう。
通貨を膨らませたおかげを堪能しているのは、怪しげなブローカーたちです。お金が回ているのだから、金を借りたままの言い訳もそれなりに通じさせることができるからです。このような不道徳な面々が世の中を闊歩していることは決して望ましいことではありません。インフレ脱却という目標が実質的に挫折している今、庶民を安心に導ける政策を政治家たちは考える必要があるはずです。それとも、政治家たちは、庶民のことなどどうでも良いと思ってしまっているのでしょうか。

旅は道連れ

2016 年 9 月 5 日

筆者は列車による旅の長さにはあまり苦痛を感じません。窓の景色を見ていると、いつでも新鮮な気持ちが持てます。ですから、JRが「乗り放題」の企画を始めて以来、随分おつきあいをしています。今年の春に北海道新幹線が開業したこともあり、北海道まで含んだ乗り放題の企画がありました。以前にも新青森までの新幹線を利用して、札幌滞在を楽しんだことがありました。今回北海道新幹線開業後初めてでしたから、きっと申し込みが多く、思い通りの経路をたどれないのではと心配しました。目玉は、道東の「摩周湖で天の川観察」とパンフレットに乗せられて、それなりの行程と宿の手配を行いました。最初の新函館北斗まで行く列車は、第三候補まで遅らせて、ようやく手当てができました。翌日釧路まで行くために、駅に近いホテルを手当てし、これも万全の策と考えたのでした。ところが、計画後二回も台風が北海道を襲いました。出発の前の日に、川湯温泉の宿泊予定のホテルに電話したところ、「釧網線は途中で止まっていて足が確保できませんよ」と伝えられ、急遽予定の変更となりました。狙いの天の川は無理でも、札幌近郊の温泉に行ってのんびりできればと、宿の手配も終えました。
ところが、出発前日にも台風が北海道を襲い、新幹線は止まっていないから、というだけを頼りに出発しました。矢張りというか、車内放送で、札幌への列車はすべて止まっていて、代行バスなどの手当ても無理と伝えられました。やむを得ずこの日は函館に泊まるようにしようと、ホテルに連絡すると即日受け入れできますとのことで、ほっとしたのでした。ところが、翌日の函館から札幌への足を何とかしようと、バス会社の予約コーナーに行くと、札幌へのバスはあと二日とも満席です、との答え。いくら何でもJRが代替法を考えてくれるのでは、と駅員に聞くと、目下のところ回復の予定は明確ではありません。代行方法などホームページを見てください、というのです。スマホを使いこなすことなどできていない筆者としては、遠方にいる家族に確認してもらいながら情報を得るという手段しかありませんでした。とにかく確保できた函館のホテルに着いてフロントに尋ねたところ、JRのホームページでは明日も特急の全面運休と書かれています、とのことでした。今更焦ってみても仕方ないから明日起きてからのことにしようと、温泉にゆったり入って就寝しました。
そして、台風通過後二日も経っているのだから、札幌まで行く手段はあるはずだと、ホテルを早めに出発しました。この時ホテルのフロントの答えは、まだ何も手段がないそうです、とのこと。それでも市電に乗って函館駅まで。長万部まで行けば、特急が走る線路とは別の函館本線があるはずだと考え、駅に着いて時刻表を繰ると、午後1時半過ぎに出る列車があると判りました。たまたま、家内が長万部まで行くバスがあると報告してきました。それらをつなげて札幌まで行こう、と一つの決断をしたところ、駅員がメモを配って札幌方面に行く旅客に説明をし始めていました。10時15分発のバスで長万部まで行くと、各駅停車を乗り継いで、札幌に午後8時少し前に着けるというのです。函館線経由では無理ですか、と尋ねると、あの線も長万部と蘭越の間が不通で、その間をバスで代行したダイヤが、もう一つ下のものです。と言うのです。これですと札幌午後8時半過ぎとなります。
それでは仕方ないと思い、バス停に行くと、もう十人以上の列ができています。「長万部行きの待ち行列ですか」と聞くと、「そうです」とのこと。さっそく後ろに着きます。バスの出発までまだ1時間半以上あります。切符を買っておこうとバス案内書まで行き係員に聞くと、「降りるときに支払ってください。1880円です」と。立たされて1時間半かと少々心が重くなりました。戻った列のところで、一人のおじさんが盛んにしゃべっています。暫く聞いていると、「青春十八切符を利用して、札幌まで行くこと」「函館まではフェリーに乗ってきたこと」「すぐの電車がなかったので、高い朝ご飯を食べたこと」などが伝わってきます。「JRの駅員も、あんな説明しているより、自分たちも倒木を取り除きに行くべきじゃないか」などと、主張は少々暴走します。聞いているのは、大人の休日で北海道を楽しみにやって来た初老の人と、おばあさんを連れている若い女性、そして、われわれの二人です。「JRの保線担当と乗客説明の要員は別ですよ」などとの指摘はしないで、時間つぶしには面白いと、彼の止まらない説明を聞きますが、話はぐるぐる回りで、あまり新しいことが出てきません。それでも、その話好きの彼は、時々相槌を求めながら、自分の主張と、今日列車が不通であることへの恨みを述べ続けます。
不思議なもので、このような話を聞いていると、時間はどんどん進みます。立たされたままであることの不安など消えて、バスがやってくる時刻を迎えました。
思いどおりにならないことだらけの旅でしたが、不思議な出会いで、なんとなく無事戻ってくることができたのでした。