イギリスの決断

2016 年 6 月 26 日

イギリスで、EUに残留するか、離脱するかの国民投票が行われました。結果は、離脱派が勝利し、世界全体に大きな影響を及ぼしています。今回の国民投票を行うことを決定した時には、このような結果を予測していなかったと思われます。最近の難民の流入などが、結果として離脱派を優位に導いたのではないかと推定されます。難民、あるいは移民の圧力が、イギリスのEU残留を望ましくないことにしてしまったのです。このことは、国民投票と言う正しいはずの制度が、ムードに押し流されてしまったように見えてなりません。少なくとも、国民投票に問う、と国が決断した時と、今回実際に投票が行われた時とでは、難民・移民の圧力が大きく変化していたと考えられます。その結果として、不寛容の判断が増して、離脱派の勝利に結びついたように思われます。このような条件の変化も含んで、国民投票なのではありますが、世界全体が、どこかヒステリックに不寛容なムードに陥っていくことが危険に思えてなりません。それは、アメリカの大統領候補の一人であるトランプ氏の発言であったり、ISの主張であったりします。不寛容な発言は、世界が冷静に判断できる時には排除されますが、ある種の危機感が蔓延し始めると、妙な説得力を得てしまいます。例えば、難民の発生を助長しているのはアメリカ自身であるにも関わらず、難民がいることの問題点ばかりをトランプ氏は訴えています。冷静に考えるなら、政治家であるなら、その根源に迫った解決策を提案しなければならないのに、表面的な難民への非難を重ねることが彼の主張になっています。それを見抜けなくなっているアメリカ国民の判断は、今回のイギリスのEU離脱の判断にとても似ています。
今回のEU離脱問題は、「国」と「個人」そして「国同士の共同体」を考えるうえでとても貴重な話題を提供してくれました。しかし、その内容を冷静に正しく検討できる国が、今世界の中にどれだけ存在しているのか、疑問に感じています。アメリカ自身の迷い、アメリカを敵視することが自身の存在証明になってしまっている北朝鮮、それらの国は矛盾だらけの行動をとっています。今回のイギリスの判断は判断として、将来の世界に向けて、各国とも浮足立っている現状を見直してほしいと強く思います。

説明できないこと

2016 年 6 月 21 日

首都東京の知事が、二代続けて辞任するという、みっともない結果となりました。政治家の傲慢さと、公私混同をしてしまう体質には、辟易としています。公の職に就くという覚悟が正しく感じられないことにも、苛立ちを感じます。選挙の時に訴えていたことは何だったのか、「当選した暁には……」と掲げていた目標はどこに行ってしまったのか。このような疑問は、辞職した二人の知事だけの話ではないと思っています。甘利元大臣の周辺にも、うようよいたいわゆる「政治ゴロ」が、この国の政治の動きを制約しているように感じます。「正しい人とだけ付き合っていたのでは政治家はやっていけない」とうそぶくような人が大臣になるお国柄なのですから。その流れで言えば、舛添知事が説明責任を果たさなかったのは、説明してしまうともっと醜い話が表ざたになってしまうからなのだろうと、邪推したくなります。悪い人の力を頼りに政治家であり続けている人たちが、この国の将来を口にしている現実を、許せないだけでなく、情けなく思うのです。記者会見の場で、尋ねている記者に納得してもらえることを話した瞬間に、取り巻きの政治ゴロに抹殺されかねない雰囲気が感じられます。本人の資質だけでなく、このような面々に牛耳られている政治家集団全体に嫌悪感を覚えます。
だから説明しないで良いのではなく、命を覚悟してでも話すべきでしょう。なぜなら、そのようなお金の使い方を自覚した上で行ったのですから。政治に金がかかる、ということを、まるで自然現象であるかのように平然と口にする政治家たち全体に不信任を突きつけたい気持ちです。もちろん、すべてではないとも信じたいのです。イデオロギーより優先すべきこととして、後ろ暗いことのない政治家を、国民はまず選ぶべきでしょう。新たに選挙権を得た18歳からの若い有権者の感性に、期待します。

コリジョンルールとビデオ判定について

2016 年 6 月 19 日

今年から、野球のホームベース上のプレーによる無用な故障を避けるために、ランナーとキャッチャーが交錯しないようにと、「コリジョンルール」が設けられました。たしかに、ホームベースをブロックすることが許されていたために、見るからにアンフェアな行為が行われていたのはたしかです。しかし、プレーの流れの中で、結果としての接触プレーは避けられないものでもあるので、それぞれのプレーに対しての審判員の判定が公平公正に行えるものか、当初から疑問に思っていました。それとともに、ホームプレート上の結果をビデオ判定することになったために、先日の試合では、審判員が裁定するまで10分近くを要した事例が発生してしまいました。言い換えれば、審判員でも明確に判断できないようなルールを用いてしまったとも言えるのです。このことは、ゲームを観戦していても納得感のない結果が押し付けられる恐れを示しています。審判の裁定は最終的なものであって、それに従わなければならない、とする従来からのルールの基本を破るものでもあります。テニスやバレーボールの「チャレンジ」は、アメリカの野球には既に導入されていますが、試合の緊張感を妙に失わせているように見えます。審判のジャッジも一つの結果なのだから、と割り切ったうえで、選手・観客が、一体となってゲームに入り込める運営を望みたいと思っています。昔名審判と呼ばれた人が、引退後に尋ねられて、「一つの試合の中で、ストライク・ボールの判定でいくつかのミスを犯してしまうことがあります。でも代償行為は絶対にしませんでした」と答えています。競馬でさえ「同着」という判定があるのですから、ボールとも言えるし、ストライクとも言える投球が存在するはずです。それに対し、すべて目くじらを立てるのであれば、スポーツそのものを否定してしまうことになるでしょう。
今年から取り入れられた「コリジョンルール」と、それに伴うビデオ判定の問題は、改善の余地があると思われます。スポーツの持つ爽快感が得られるようにと願っています。

舛添劇場の終演

2016 年 6 月 16 日

東京都知事の舛添さんは、自身が知事であるのだから、公用車を半ば私用のように使っても咎められるはずはないと思いこんでいました。規定に書かれているのだから、ホテルの高級なところに泊まることが当然なのだと考えていました。たぶん、これらの行動は、法律上は問題とされないことなのでしょう。ところが、このような驕りの姿勢の先には、家族旅行の払いを政治資金から支出しても咎められない、とか、半ば趣味的な美術品の収集も政治資金の枠の中と思い込んだりしていました。これらの事象に対しては、お雇いの弁護士でさえ「不適切」の烙印を押しました。だったら、不適切と指摘されたことに対処すれば、もう後ろ指をさされないものと思っていたふしがあります。ところが、庶民感情は、最初に挙げたことごとはルールにのっとっているのだから、という釈明を良しとはしませんでした。庶民感覚迎合型の政党は、ここぞとばかり、知事の辞任要求まで走って、ついには、舞台から降ろされるに至ったのでした。公用車の利用など過去の指摘に対して、もう少し謙虚な姿勢で対応していたとしたら、ここまで話が進まなかったではないかと、筆者は考えています。そのときその時の知事の回答は、間違ってはいなかったとしても、庶民感情を逆なでするものであったことは確かです。ですから、政治的な決着を、結局は辞職の形でしか示せなかったのでしょう。庶民感情に対して、各政党が神経質である参院選直前という条件も、この結果を誘導したと思われます。
あれほど自信過剰であった知事ですが、ワイドショー型の追及ももうこれまでとなるのでしょう。
もうひとり、舞台に上がらせなければいけない人物がいます。TPPの交渉役をしていた甘利前大臣です。舛添知事がたたかれていたのに隠れるようにして、政界への復帰を図っています。彼の個別の動きはともかく、「正しい人とだけ付き合っていたのでは、議員資格など保てませんよ」とうそぶいた発言だけで、もう議員であってほしくないと考えます。このような、議員失格と思われるような人たちばかりが国会にいるように思えてなりません。せめて、これらの体質を持つ議員を少しでも減らしていくことに、国民は力を注ぐべきなのでしょう。

この国の行方

2016 年 6 月 12 日

国会は閉会となって、来月に行われる参議院議員の選挙に向けて、政党はそれぞれ主張を述べています。ところが、議論はかみ合っていません。選挙向けの中味が、実際に国会で審議されたこととはかけ離れているからです。多くの課題に対して、政権は十分審議を尽くして、と口では言いながら、実際の論点を指摘されることさえ好みません。お上がやりたいことを国民に強いることが当然だと言わんばかりの国家の運営にしているのです。首相が、自身を「立法府の最高責任者である」などと間違った認識をしていても、そのことさえ与党内部で批判する人がいないのです。間違った発言をしても、議事録を訂正すればすべて問題はない、としてしまう国会運営などにも重大な問題があります。そのような争点隠しの運営をして、経済が大切だなどと言ってはいても、解決策の一つも見いだせず、財政出動などととんでもない発想しかしていません。これほどまで国の借金を抱えていて、さらに財政出動をしようとすれば、国の経済がどのような方向に向いてしまうのか、それは意図とは全く異なる結果になるであろう予測は、経済学者であれば見破れることのはずです。経済を立て直すためには、不本意非正規雇用がこれほどまでに達してしまっている状況を是正するところから始めなければいけません。そこを是正することで、少子化問題、個人消費拡大、などが徐々に解決されていくはずです。それを克服するには、経営者の凍り付いた心を溶かすところから始めなければいけないのかもしれません。「新自由主義」とやらで、国民一般のセーフティーネットをはがしていくことが「規制緩和」であるかのようにしてしまった過ちを正すことが大事です。これほどまでに、国民一人一人の安全・安心を損なう政治をしていながら、国家の安全のため、などと平然と話して平和国家から遠ざからせようとしていることが許せません。
難民問題の入り口までさかのぼると、世界全体を不安に陥れている事柄の最初に、先進国と呼ばれている国々のわがままな行動があることが判ります。このような歪を地球全体に及ぼしてしまっていることに、謙虚な反省をするところから、これからの政策選択を始めるべきなのでしょう。異議を唱えられることに、神経質なまでにこだわっている政権には退いてもらうよりほかないのでしょう。

問われていたのは

2016 年 6 月 6 日

東京都の舛添知事が、公用車の拡大利用をはじめとした公費の私的流用などについて、弁護士による調査報告を発表しました。時を同じくして、TPP交渉の日本の顔でありながら、「あっせん利得」の罪が問われていて睡眠障害を理由に隠れていた甘利議員が、検察の不起訴処分を根拠に政治活動を再開すると報じられています。税金から支出されたお金を、目的外に使ってしまったことは、法律上の罪は問われないからと言って、禊(みそぎ)が完結するような種類のものではありません。舛添知事の会見の中で、償いの仕方を述べていましたが、これも問題の一面だけを消すことができたとしても、知事がこのような醜聞にまみれたこと自体には、何の解決を導くものではありません。その自分の話していることのいい加減さや、当初感じていたはずの道義的責任などは、どこか遠くへ放り出しているようです。聞いていて、納得感がありません。別荘を売却することは、本人にとっては重いことなのかもしれませんが、これまでの在任中、公用車でそこへ行っていたことの疚(やま)しさを自ら認めている程度のことにしか見えません。地位を得てしまうと人は変わってしまう、とはよく言われていることですが、今回の騒動では、醜さが明らかにされたばかりで、責任を負う姿勢がどこからも見えません。このような人が、首都の知事であったり、TPPの交渉役であったということは、わが国の汚点であるとしか言いようがありません。
残念ながら、政治の世界にいる人たちの多くが、似たり依ったりの生活感を持っていますから、通常の庶民の感覚での解決策は生まれてきません。睡眠障害を口実に誠実な説明は全くしなかった甘利議員が、検察が不起訴にしたのだから問題しなかった、かのような態度をとっていることも許せない話です。大臣室で50万円をポケットに入れた、ということだけでも、もう政治家としては終わりであるべきです。ところが、永田町の政治力学では、このような力を持っていることが尊ばれてしまうようなのです。これまた、とても許せない話です。舛添知事の陰に隠れて、いつのまにか政界で大手を振って歩いているのだとすれば、国民は選挙で落選させるよりほか手段がないのかもしれません。

争点が見えない選挙

2016 年 6 月 5 日

現在の政権は、批判的なことを言う相手に対し、敵意をむき出しにした対応をします。これは民主主義を進めるうえで、望ましいことではありません。というより、入り口のところで民主主義を否定していることになります。自分とは異なった意見でもそれを聞き、自分との違いを明確にしていくことは、民主主義の世の中を形成するうえで欠かせない資質です。ところが、以前マスコミのキャンペーンの結果自分たちが政権を追われたという間違った認識を持っているために、現政権は自分たちと異なる主張をする人たちをすべて排斥しようとしています。とんでもないことですが、どうやら報道機関のほとんどは、このような政権の意のまのまになってしまっているようです。翼賛政治とでも呼びたい現状は、とても不安です。結果として、与野党間の争点が見えない、あるいは、与野党間が異なった意見を有していることさえ、国民に見えなくさせてしまっています。自分たちの主張の正当性を述べるために、G7の議長国である地位を利用して、リーマンショック直前の危機が見られる、などと身勝手な総括をしてしまい、世界中から顰蹙を買っています。アベノミクスが持っていた政策の限界は、もう見え見えです。最近は、アベノミクスをやらなかったら、あのデフレ状態にのままで、経済の先行きは見えなかったはずだ。だから、アベノミクスは正しかったのだ、という論法を使っています。しかし、景気回復が全国普く行きわたる、と述べた公約は、果たされていません。なぜ果たされなかったかを考え、だから、これからの政策の中でこういう方向性を出せばよい、と進言する経済学者はいないのでしょうか。経済学者など、単なる結果論を並べる程度で、世の中の行き先を見つめる力がないのでしようか。
少なくとも考えなければいけないこととして、「不本意非正規雇用」の若者の立場を、もっと改善していく、と言う課題があるはずです。このことは、少子化の対策でもあり、個人消費の安定した拡大策でもあるはずです。政府が経済団体に賃上げを求めるなど、本来行うべきことではありません。労働分配率をひたすら低下させることが「合理化」だと思い込んでいる経営者の頭の中を改革しなければ、わが国の将来への展望は持てないのです。非正規雇用があたかも正規であるかのような錯覚を振りまく政府は退陣してほしいと思っています。

スポーツの持つさわやかさは

2016 年 6 月 3 日

オリンピック招致委員会が、海外の会社に支払った「コンサルタント料」に関して、すっきりした説明はなされていません。少なくとも、フランスの当局が、いかがわしい話であると推定したものであることは確かです。ところが、わが国の中では、このような怪しいお金の流れについて、法に触れたかどうかだけを優先させて扱っているようです。本来は、どのような怪しさがあったかをまず追及すべきだと、筆者は思います。スポーツの持つべき清潔感から離れてしまったような感覚が招致委員会の中にあるのだとすれば、まずそのことを咎める必要があります。長野オリンピックの招致の時も、平然としてやましさを犯し、書類などはすべて廃棄してしまったと伝えられました。どのような汚さがあったとしても、市民は知らないで良い、お祭り騒ぎだけやっていてくれればよい、というような為政者の対応でした。今回も同じようなことなのかもしれませんが、国際世論は、権力者が考えているほど甘くはありません。贈収賄と思われることに、このコンサルタント料が使われていたと発覚すれば、開催を返上しなければならなくなるでしょう。本当の悪は、そのような事態を回避しようとすでに手をまわしているのかもしれません。
国際陸連の会長職にいた者が、ドーピング疑惑をもみ消そうとしたり、このような不正な招致活動にも関係していたり、嘆かわしいばかりです。わが国の招致に対する姿勢は、筆者には清潔感にやや乏しい感じがしました。ですから、もし、このような怪しげな金の動きがあったのだとしたら、厳しく追及され、かつ、返上に向けて動くべきだと思っています。この動きに出てくる何名かは、どう見ても清潔感不足の見えますから。
実際にスポーツを行っている人の99%以上はこのような穢れとは関係のない人たちです。彼らが流す汗が、裏切られることなく報われる日が来てほしいものです。

消費税増税先送り

2016 年 6 月 1 日

ほとんど実績を挙げられなかったG7を終えた後、増税の先送りはしないとの公約をいとも簡単に宗旨替えして、政権自らが先送りの提案を図りました。その根拠が、リーマンショック直前の様相にきわめて類似している経済環境にあるから、というのですが、果たして本当でしょうか。野党は、アベノミクスが失敗したために、増税を受け入れる環境にないから、消費税増税を延ばすよう求めています。一見、与野党とも同じ提案をしているかのようですが、意図は全く異なっています。それよりも、どちらの提案も財政再建への道のりを明確に示していないところに、わが国の混迷の深さが見られます。本欄では、国債依存症になってしまったかのようなわが国の財政は、「平成の変」の原因を構成していると指摘し続けてきました。形の上で、国民生活の安定とか安全などと言っていますが、将来に向けて財政破綻が見え隠れするような状況では、正しい政策選択が難しくなってしまうのです。その結果として、言葉ばかりの、例えば「アベノミクス」だとか「積極的平和主義」だとかが、まことしやかに語られるだけで、将来設計を心がけた政策論争が行われません。考えてもみてください。現政権と同じ顔ぶれのメンバーが、「百年安心年金」などと言い放ったのは決して遠い昔の話ではありません。それどころか、障碍者の自立支援などと、耳に響きのよう法案名であっても、実は、障碍者切り捨ての内容が色濃い法律まで出してきています。その背景を構成している最も大きな圧力は、肥大化してしまった国債発行残高でしょう。
そのような中で、消費税増税を先送りすれば、当然のように財政再建への姿勢は弱くなってしまいます。あるいは、財政再建が不能であるから、その状態がリーマンショックの直前に類似していると、官僚の誰かが言い始めたのでしょうか。データのある部分の整合性だけで、現状がリーマンショックの前に似ている、などと世界中の物笑いになる理屈をつけてまで、消費税増税を先送りする総理は、一昨年に無理やり解散したときに約束したことなどすべて忘れているのでしょうか。嘆かわしいわが国の政治の実情です。

警察の怠慢

2016 年 5 月 30 日

昨日、安保法案廃止に向けたパレードに参加してきました。一昨年、集団的自衛権を目指す武力行使容認の唐突な閣議決定に反対する弁護士会主催のパレード以来三年続けて、この時期に参加したことになります。一昨年の時も、右翼の街宣車がやってきて、論旨不明の話をやたら大きな声で周囲にまき散らしていました。今年も、集会の開始前から耳障りな街宣活動がされていました。またかと思う程度でしたが、そのあとパレードが公園を出発して暫くすると様子がおかしいのです。多数の参加者を幾つかのブロックに分けることで、順調に進むことができるよう図っているのですが、前のブロックが進まなくなって、間に入っていたバスもほとんど動けなくなっているのです。15分以上でしょうか、待たされた挙げ句ようやく動き始めました。バスが、対向車線まで出て通り抜けた場所には、街宣車が停まってしまっていたのでした。パレードの届け出があったわけですから、道路に停車させないようにするのが警察の務めのはずです。どうやら、この対応に不手際があったのでしょう。停まってしまった車を、本来なら直ちにレッカー移動をさせるのが警察の務めのはずです。その機動力がないことを見抜いたかのように、街宣車を止めて大声を出しています。そもそも、不当に停車している街宣車ですから、その音声などに対しても取り締まるべきなのだと思います。ところが、「自主憲法制定」などと、政権が喜びそうなキャッチフレーズを出している街宣車に、警察はへっぴり腰で取り締まりをしようとしません。こうなれば、やってしまったもの勝ち、という悪い見本ができてしまうだけです。パレード実施に対し、警察が見落としたことを反省し、今後はスムーズな実行ができるよう対応する必要を指摘しておきます。
それにしても、右翼の街宣車は、ヘイトスピーチなどで場慣れしているからでしょうが、周辺を見くびっている雰囲気が不気味です。まるで、政権と通じ合っているかのようです。