花粉症

2015 年 3 月 4 日

堆肥製造機械化の研究を行う中で、花粉症をひどくさせてしまったと思われることがいくつかありました。牛糞と麦わらを混合した堆肥を作るとき、牛糞自体は臭いはどうあれ、埃で鼻を刺激することはありませんでした。もう一つの材料である麦わらは、収穫の時に土がついてしまい(麦の収穫シーズンは雨が多く、わらに泥がついてしまうのです)これを混合作業するときに、半端ではない埃にまみれました。それ以前から花粉症を自覚していましたが、麦わらを扱う実験で、症状がひどくなったと感じたものでした。牛糞と混合作業をしていると、混ぜ始めは麦わらからの埃が目立ちます。次第に糞の持つ水分で埃の発生が抑えられ、麦わらと牛糞がしっとりした感じになれば、その作業を終える目安となるのでした。そのような混合処理を十数回行うと、顔は埃にまみれ、何回もしたくしゃみのせいで、のどまで痛くなったこともありました。
それでも、麦わらと牛糞で製造した堆肥は、農家には評価されるものでした。おがくずも同様な処理に用いましたが、こちらは混合作業は簡単に終えることができ、埃も気にせずに済んだものでした。
そのような堆肥づくりの方法を、世の中に伝える機会があり、それなりに原稿を書いたりしましたが、いまだ、現場には正しい認識がなされていないと思わされることがあります。研究の成果は、自己満足に終わるものではなく、使い手に正しく受け止められるところまで達しないと意味がないものです。残念ながら、刊行物があっても、「たかが堆肥」とばかりに、いい加減な仕込みをしてしまう人がなお居るようです。その結果、材料以上の悪臭を出してトラブルを招いてしまう例があるのです。もっともっと、研究成果の中身を世の中に普及させなければと思っています。

マラソン日本の復活通し

2015 年 3 月 1 日

今日行われた琵琶湖毎日マラソンは、上位を海外勢に独占され、またも情けない結果となってしまいました。遠い昔、マラソン日本を謳歌していたころは、海外からの選手は日本人ランナーの引き立て役でしかありませんでした。いつのころからか、日本人選手の記録の伸びが見られなくなってしまいました。先週の東京マラソンで、7位に入ったことを称賛するような記事がありましたが、そのことがいかに不甲斐ないかを物語っています。今やマラソン選手は後半の30kmからベースアップできなければ世界とは戦えません。それに耐えられるランナーが残念ながら見当たらないのです。
瀬古選手を育てた早稲田大学の中村監督は、長距離を志すなら、800mからマラソンまで取り組めるようでなければ駄目だ、と強く指導していました。その指導の中から、世界に誇れる選手が出てきましたが、現在はそのような言い方をする指導者はいなくなってしまいました。筆者の学生時代に比べると、長距離競技者の数は、現在の方が数倍上回っています。底辺が広がったのだからもっと上位の選手が伸びて当たり前、と思うのですが、それを示してくれる選手がいません。絶対的スピードを持って、世界と対抗できる選手が、トラック競技でも出てこないと、マラソンでも通用する選手が出ないのでしょう。女子マラソンも、このところ海外の選手に太刀打ちできない状況になってしまっています。高橋尚子選手、野口みずき選手のころのように、競り合って、最後は日本選手が勝つ、というレースをまた見たいものです。
故障せずに、強い練習に耐える、というのは、とても難しいことだと、筆者は思っています。でも、その困難を越えてくれる選手が、ぜひいてほしいと願うのです。

環境大臣の言い訳の虚構

2015 年 2 月 28 日

国から補助金を受けた団体や企業が政治献金を禁止している政治資金規正法に関し、望月環境大臣は国会の答弁でとんでもない内容を述べた。彼の答弁は、「献金した企業が国の補助金を受けていると知らなかったので、判った段階で道義的に返金した」というのです。このような操作を「道義的」とは言いません。判明した時には、このままでは処罰されると自覚したはずであり、それにおののいて返金したのです。結果としては、処罰は逃れられるかもしれませんが、このような返金の手続きをしたことは、道義的問題の話ではありません。時間経過的にいえば、自覚していなかったことへの言い訳でしかありません。政治家が、受け入れている献金に対し、やましさがない、と言い切れない状態で正解が動いていることが問題なのです。
中学一年生が、仲間に殺された問題と、どこか通じているように見えるのは、ニュースの中で何回も繰り返されているからなのでしょうか。少年を殺したと推定される少年は、現在、「そのことについては話したくない」とだけ供述しているようです。この言い逃れ方と、「道義的」とする言い訳に相似性を感じるのです。
ここからのいくつかは筆者の憶測ですが、少年を殺してしまった少年は、一時的に頭に血が上り中一の少年を痛めつけ、その状況の中でさらに興奮して手段をエスカレートさせてしまい、ついに殺害に至ったのではないかと思います。その間の加害少年の心の軌跡は、なかなか裁判では明らかにされないかもしれません。
企業が政治家に献金するのは、何か対価を求めているからではないでしょうか。政治資金規正法の議論の中でも言われたことですが、「対価を求めないで献金することは、株主や社員に対する背徳であり、対価を求めているとすれば贈賄行為だ」という理屈を改めて思い返します。
その程度の政治家しか選出できていないことを、国民はもっともっと嘆くべきなのでしょう。

ずっと戦後で良いじゃないか

2015 年 2 月 27 日

「戦後」という言葉を、なぜか忌み嫌うかのような首相の声が聞こえてきます。あの第二次世界大戦が終わった時、日本国民の多くは、脱力感だけではなく、これで戦時体制の束縛から解放される、というある種の感動を覚えたはずです。戦時体制の持つ理不尽な締め付けが、どれほど一般国民の生活を暗くしてきたか、敗戦がもたらした解放感がどれほどのものであったのか、考えてみれば、今の若い人たちにも十分理解されることでしょう。
このような戦争に突き進んでしまったことに対し、国内の課題としての総括が正しくなされなかったことは、大変遺憾なことです。戦勝国が、敗戦国の責任を問う、というだけの国際裁判が行われてしまったために、自国の過去を反省する機会をわが国は失ってしまったのでした。そのことが、尾を引いてはいますが、敗戦50年の村山談話で、国としての反省が表明されたのでした。それを受けて、60年には小泉談話があって、その反省の芯は変わらないものと、国民に浸透しているはずです。ところが、どういうわけか、この反省に共感できない首相を、現在頂いてしまっているようです。本当は、これから、100年目も、150年目も戦後を頭に着けて、毎回正しい反省をすれば良いのだと思います。間違っても、あの第二次世界大戦以上の悲惨な時を作ることで、1945年の敗戦の日をオーバーーライトさせてはならないのです。
隣国とのエチケット外交さえできない首相に、国運をとても委ねられないと、強く感じています。
そして、この夏に発表される安倍談話が、次の対戦のきっかけになるようなことだけは、御免こうむりたいのです。

首相の野次(2)

2015 年 2 月 25 日

国会で首相が野次を飛ばしたことに関し、強い非難を昨日本欄に記しました。それだけではない、首相の傲慢さが今回の野次事件にあったと補足したい。西川農林水産大臣が、追及されたのは、国から補助を受けた団体や企業から献金を受けたことに対する質問であった。そのとき首相が野次で指摘しようとしたのは、発言している民主党だって日教組から献金を受けているではないか、という正しくない認識に基づく内容であった。西川大臣が献金を受けていた怪しい団体や企業とは、本質的に異なるところからの献金を問題視しようとしたのである。このことが、際立って問題であるのである。以前、ある県の知事選挙で、大学教授が非自民系候補を推薦していることについて、安倍政権は、その支援体制をなんとか崩せないものか、その大学が国関係の期間であったことから、圧力をかけるようなことをした。民主的選挙において、相手陣営に与したことを、このような方法で排除しようとしたところに、ファシズム的傾向が感じられたのである。今回の野次で、日教組としゃべった背景には、この感覚が通じているようである。日教組憎しの感情を首相が持つこと自体を非難はできないが、公に組織された労働組合に対し、俺(首相)の意見と異なるところがあるからと、まるで非合法機関であるかのよえに口にしたのである。その行為が民主主義を否定することにつながっていることさえ理解できていない。
そういう首相を頂いてしまっている現状には、暗澹たる思いが募るばかりである。良識ある議員であれば、与党、野党にかかわらず、このような首相の暴挙に対し、賛成できないであろう。残念ながら、この国の現状は、その思いを表に出すことが憚られるようになってしまっている。
相手を、このような方法で抑え込めているという思い上がりが、近い将来破綻に至るであろうが、そのとき国民の生活を巻き込まないでほしいものである。

首相の野次

2015 年 2 月 24 日

農林水産大臣の辞任で決着をつけようとしている国会で、この大臣への献金問題が審議されていた時、なんと首相が野次を飛ばしたのです。それだけでも品位のない行為ですが、野次の内容そのものが認識違いであったと後日答弁したというのですから、嘆かわしいばかりです。審議機関である国会のようなところで、野次ひとつ飛ばないのは違う意味で恐ろしいことかもしれません。当意即妙、反対派の議員でさえ苦笑するような野次は、ことの本質を相互に理解するうえで、必要なことなのかもしれません。しかし、内閣の席に座っている首相が、それも間違いであるのに野次ったということは、国会を軽視しているというか、間違った全能感を抱いてしまっていることの症状の一つとしか思えません。政権に反論するようなマスコミに対し、さまざまな圧力をかけて萎縮させ、自分たちだけの思い込みで歴史を動かそうするとんでもない思い違いです。
残念ながら、国会議員そのものの質も劣っていますから(辞任した農林水産大臣を見れば明らかなとおり)、国の将来が思いやられてなりません。首相の野次のほかに、野党党首の質問に際しても、自民党議員から、言葉のテロとも言えるナンセンスな野次が飛ばされました。品位とか、国会なのだから、とか説教する気にもならないだらしなさです。自民党の幹事長さえ、弁護できないふるまいでした。ところが、このような告発されるべき事象に対しても、大手マスコミは小さな報道をするだけです。
以前、「ナチスだって育ったのはルールの中だったのだから」と言い放った副総裁の思い通りに実行している現政権に対しては、強い疑問符を投げたいと思います。

黒田総裁のオフレコ発言

2015 年 2 月 21 日

昨日の国会で民主党の前原議員が、日銀の黒田総裁に対し、概略次のような質問をしました。「日本の国債が格付けを下げられていて、いずれ信用を失う恐れがあることは、総裁自身懸念されているのではないですか。そのことの見解は楽観的な首相と少々違っていると会議でオフレコ発言をされましたね」これに対し、黒田総裁は、「発言内容は、内閣府から発表されている議事要旨の通りです」という肩すかし型の答弁をしました。
本欄では、平然と国債を発行し続けているこの国の神経が理解できない、と再三にわたって指摘してきました。黒田総裁のオフレコ発言は、この本欄の指摘が正しいと認識していることを示しています。一般には、国債は国が発行しているのだから、信用は絶大であって間違いなど起きはしない、と信じられているようです。ところが、通貨をどんどん増し刷りしていけば、やがて、通貨が持つ信用そのものを失ってしまうのです。それに向かわせるだけの政府のあり方に関し、修正を求めようとしたのがオフレコ発言の真意だったのではないでしょうか。その指摘は、財政健全化、との言葉に集約されます。身の程を知っている国が、その範囲内で国債を発行する間は、前にも記した信用が成立します。ところが、その則を越えて安直に国債にすがってしまえば、行き着くところは経済破綻でしかありません。さすがに、黒田総裁も、その悪夢が現実化する恐れを強く感じ始めたのでしょう。遺憾ながら、この議論が行われている国会全体では、この惧れに対し十分な認識がありません。困ったことです。
さらに、とんでもない野次を飛ばす議員がいて、与党全体はこの議員を守ろうとしているかのようです。私たちは、将来をこの程度の国会に委ねて良いものかどうか、考える必要があります。萎縮しきっているマスコミは、ことの本質を正しく追及できていないようです。

二頭目のクジラ

2015 年 2 月 18 日

日本のODA(政府開発援助)に関し、現政権は、人道的な目的に限れば軍隊関連であっても、援助の対象にするとしています。言っていることの意味がはっきりしません。軍隊に対して援助するということが、政権の言う縛りとバランスできる形で実行できるはずなどないと考えています。
国会の演説でも、自衛隊が国民の安全な生活に寄与してきたことを挙げて、その延長線上に海外でも平和への貢献活動をする、という論調で平然と話しています。これまで、自衛隊が手を血に染めずに来られたのは、平和国家日本を、国民全体で支えてきた成果なのです。ところが、そこへの思いを致さずに、あたかも、日本の自衛隊であれば、海外に出かけようとも平和にだけ貢献できるはずだとする、首相の頭の構造はとても理解できないものです。
ところで、今日のタイトルは、首相のいい加減さを追及するために掲げたものではあません。海外のODAで立派な漁船を受けた国が、この漁船を使わずに錆びさせてしまったことが報道された時のことです。受け入れる現地の人が次の趣旨の発言をしたのだそうです。「私たちの地域にとって、クジラを捕まえることはとても大切なことです。ですから、この援助してくださった漁船で簡単に捕獲することができました。ですけれど、自然から恵まれるクジラですので、二頭目のクジラは必要ないのです。結局、使われない期間が長くなった漁船が錆びついてしまいました。それで、昔通りの方法でクジラをとって、豊かに生活は送れています」というのです。この漁船を援助しようとしたわが国のプロジェクトの人は、効率よくクジラが獲れるのだから、二頭目、三頭目も捕獲してどこかに売って、生活を向上させれば良いはずだと、思い込んでいたことでしょう。しかし、現地の人にしてみれば、自然からの恵みを、そのように利用することなど考えられないことなのです。自然に対してわがままを言ってしまえば、どこかで無理が生じるはずだと、考えてのことでしょう。
経済成長至上主義で、大きな過ちを犯している先進国群への強い警鐘なのだと、このODA漁船問題の顛末から思ったことでした。

年金基金の解散予定

2015 年 2 月 15 日

筆者の所属する年金基金が近日中に解散することについては、以前本欄でもお伝えしました。いったんは、継続を目指しての説明会がもたれたのでしたが、監督官庁のご指導により、解散へと方針が変更されたことも記しました。なぜそのような状況になったのか、大きく言うと二つの理由があります。ひとつは、基金継続の前提としていた運用益の確保がとても無理となったことです。もう一つは、年齢構成から見て、受給者は増え続けても、それに見合った現役世代の数の増加が見込めなかったことです。今朝の新聞に伝えられている解散予定の年金基金は、ほとんど似たような状態なのではないでしょうか。考えてみれば、「団塊の世代」が、世間全体で占める位置が変わってきて、一昔前は勤労世代だったものが、今は年金受給世代になったのですから、ある意味当然と言えば当然のことです。しかし、もう少し詰めて考えると、これは、年金基金だけの問題ではなく、国民年金、厚生年金に関しても、類似の事態はやってくるはずです。
一週間余り前でしょうか、消費税を10%に上げてみても、財政の不健全性は解消されない、と報道されていました。このような報道に接しても、「またか」と思うのが国民の一般的心情です。でも、これは、大変な指摘事項なのです。今の制度設計では、年金が持たない、と言っていることに等しいのですから。言い換えれば、政府は、なだめながら年金支給額を減らす提案をしてくることでしょう。この試練に、日本全体が立ち向かわなければならないのは、決して遠い将来のことではありません。なおかつ、ことの本質から見れば、ぎりぎりになる前に対応策を講じなければいけないはずです。筆者は、ある程度は富裕税の導入などでしのぎ、残りは等しく国民全体で耐乏することだと考えています。このための議論を一刻も早く国会で展開されるべきです。間違っても、果実だけを求めて武器輸出を行い、テロ国家を誘発させた某先進国に倣うべきではないのです。

改革は常に善なのか

2015 年 2 月 13 日

国会における論戦が、今国が最も関心を持たなければならないことから目を背けるように仕組まれているように見えてなりません。本欄では、何回となく問題を指摘し、そのこと抜きにしては、わが国の将来は見えてこないと主張してきました。それは、財政の不健全性の立て直しについてです。ちょっとだけ借りるつもりが、際限なくつみあがって、国民一人当たりで800万円を超える額になっています。筆者の親しい人はこう言います。「国民にその自覚はないのに、国民一人当たりという表現はやめるべきだ。議員たちにこそ責任があるはずだ」と言います。たぶん、責任を最も感じなければいけない国会議員ほど、責任の自覚がないのかもしれません。ですから、ある日マスコミは、国会議員一人当たりとして、この国の借金を評価する記事をのせなければいけないのかもしれません。
この財政の不健全化こそ、わが国の閉塞感の源なのです。それをすり替えるかのように、改革が大切なのだと首相は大きな声を出しています。もちろん、改革すべきことがゼロではありませんが、改革と括ることで、大切な何かも社会システムから排除しようとしているかのようです。だいいち、少子化の最大の原因は、若い人たちの雇用形態なのですが、非正規雇用を増やそうとする政府が、少子化の対策を立てている矛盾は笑いものです。そのうえ、経済成長を絶対的目的のようににしていますが、近年の経済成長のほとんどは、地球に蓄えられたエネルギの浪費を加速することでしか得られていません。このような動きは、環境の側面から見ると、自分たちの首を絞めているだけのことです。そのことに、ほとんどの人が気付こうとしないのが不思議でなりません。そのうえ、わが国では、国の借金を増やす形で、上げ底の経済成長を仕込んできていました。このことは、ダブルで国の首を絞めていることになります。
国の行く先を、首相が声を張り上げて述べることの異常さに国民は気づかなければならないのです。
テロ国家は、地球の上から排除しなければなりませんが、テロ国家を育ててしまったのは、先進国の側にも責任があることを自覚しなければいけないのです。