安全保障環境の変化に対する責任

2015 年 7 月 30 日

現在参議院で論戦が繰り広げられている安全法制について、政府側の意向に強い違和感を覚えている。それは、政府が言う「国際的安全保障関係の変化に対応するため」、という論旨に自己矛盾が存在しているからだ。武器輸出を積極的に認め、それを経済成長の柱の一部にしようとしている安倍政権の主張そのものが、世界を不穏に陥れているのに気付いていないはずがないのに。世界に武器を供給する者となってしまえば、その結果としての安全性の低下を指摘する資格はないはずなのだ。一方で武器を売って儲けようとする「死の商人」であり続ける方向に国の舵を切ってしまい、他国の脅威だけをあげつらっている様は、異常である。アフリカの某国が海賊国家になってしまったのは、武器を与えて内戦を助長した先進国と呼ばれた国にも責任があったのではないのか。というより、アフリカの諸国に武器を売り込んで、部族間抗争を煽って、その隙をついて資源を収奪しようとしているのは、21世紀型の植民地主義だと言い放った評論家の思いを支持したい。
自分たちで社会の不安定化を進めていて、その挙げ句に、わが国が掲げていた平和主義の旗を降ろしてしまおうとしているのが、現在の安倍政権のやり方ではないのか。とても許せるものではない。衆議院での絶対的優位の議席数に胡坐をかいて、歴史を踏みにじるような行為は許されるはずがないのだから。
それにしても、暑い日が続きます。

妙に納得感のある

2015 年 7 月 29 日

安保法制が、違憲論を突破してでも無理矢理通過させられる理由は何か、という話題が出たとき、ある評論家が次のように言いました。これは、永田町の論理で、衆議院で三分の二以上の優位を得ている与党が、その勢力図だけを背景に自分たちの思いを遂げてしまおうとするものです。ですから、国民のため、だとか、国を守る、だとか、個別の議論をしてみたところで、議論をすればするほど提案者側のいい加減さが露呈してきますけれど、最後は議席数で決められるのだからと、全く誠意が見られない対応しかしないのです。当然ですが、そのような無理やり通した法律であってみれば、だれが見ても法の安定性を欠いてしまうのは必然となります。そこを指摘されたら、安定性など考えることはないとの趣旨の発言を首相秘書官が述べたりします。とても尋常な国会審議になるはずもありません。そもそもの発端は、集団的自衛権に武力行使を容認しようとする閣議決定にあります。当時は、法律案を提出してから、国民の納得を得られる十分な審議を行って、採決に向かうとしていたものが、時間が経過したからとの理屈で衆議院で強行採決に踏み切りました。首相自らが、国民の理解をまだ十分に得られていない、との認識を示していたにもかかわらず、なのです。参議院の審議が始まる前に、政府は、中国の東シナ海における油田開発の暴走の写真を公開しました。このような国際緊張の変化があるのだから、集団的自衛権のための武力行使を認めなさいと、国民に示したつもりなのでしょう。
ところが、議論がいつも空回りするのは、中国脅威論は集団的自衛権より以前に、個別自衛権で解決できる可能性が高いのです。集団的自衛権と称して、地球の裏側にまで自衛隊を出動させ、世界の保安官を気取るアメリカの腰ぎんちゃくにしようとする意図が、この理屈だけでは通らないのです。それなのに、この腰ぎんちゃくのための日米防衛ガイドラインを決めてしまったものですから、政府は慌てているのでしょう。パッチワークのように、理屈をこねまわしても、どう考えても憲法違反の法律案なのです。廃案しか選択はあり得ない、との評論に筆者は賛成します。

甲子園の予選

2015 年 7 月 27 日

全国高校野球大会の都道府県予選は、各地で決勝戦が行われるところまで進んできました。複数の学校が一緒になって出場している例が増えています。単独では出場できない学校への配慮なのだと思う一方、多数の部員を抱える学校の指導者の苦労も考えてしまいます。大量の部員のいる学校の指導者は、一人一人が充実したクラブ生活をどのように過ごせるか、随分心を砕いているはずだと思います。長年野次馬的に見てきた感想を述べれば、指導者の力量でチームの力はかなり変わります。野球上達の極意はそれなりに理論化できると思っています。それでも、スポーツ特有の才能の違いというものも歴然と見せつけられることがあります。ある高校の監督が語っていたことを思い出します。「地域の中で育ってきた才能を毎年最大限伸ばしたとしても、県内のトップに毎年立てるわけはない。それでもその挑戦に一緒に向かってくれる生徒たちのことを思えば、指導者としての責任を感じる。」 予選はトーナメント方式ですから、一つの試合が終わると必ず一つの負けたチームが生まれます。とても残酷な感じもしますが、すがすがしさも感じます。勝利だけを強制するような雰囲気を帯びた高校は、どうしても応援できません。
さまざまな高校が、各地の予選を突破して出場の名乗りを上げています。予選を前に伝えられた予想を全く裏切った地区がたまに見られるのを、なんとなく楽しみにしています。

暑中お見舞い申し上げます

2015 年 7 月 24 日

大暑を過ぎて、蒸し暑さにまいっています。みなさまも、暑さをしのぐのにいろいろ工夫されていることと思います。最近では、天気予報の中でも、熱中症対策を心がけるような言葉が伝えられます。じっとやり過ごすよりほかないのでしょうか。寝苦しさに夜中目覚めることも多くなっています。そのぶん、日中にうつらうつらすることが増えているようです。暑さだけのせいではなく、老化のせいだと指摘されてしまいそうですが。暑い中に、愉快でない報道がありますと、一層気分は悪くなってしまいます。なにしろ、この国は大切な分岐点を過ぎようとしているのに、その本質を提案者である政権与党でさえ十分理解できていないのですから。どさくさに紛れるように、参議院選挙区の区割り変更も決められてしまうようです。自分たちに利害のある話を、正しい判断で変更できるような人たちが選ばれているとはとても思えませんから、この報道にも納得ができません。
考えてみれば、参議院の定数問題など、違憲と指摘されていながら、何とか言い逃れるだけの変更でその場しのぎをしているだけです。この程度にしか国政を見ていない人たちが、集団的自衛権のための武力行使の話など、まっとうにできるとは思えません。
近くで夕立が降っていると報じられていますが、筆者の住む場所にはまだやってきていません。雨が過ぎれば、少しは涼しくなってくれるのでしょうか。
あと二月近く暑さが続くと思われます。せめて、気持ちをリラックスさせて、秋を迎えたいものです。

この転機をどう乗り越えるのか

2015 年 7 月 23 日

政権が提案した安保法制は、違憲の疑いが濃いと指摘されているだけでなく、当初政権側が求めていたはずの正しい討論の応酬がなされないまま、衆議院を強行採決の結果通過させられました。日本の国民には、中国の進出対策であるかのように説明していながら、実際には、世界の保安官を気取るアメリカに追随して、世界のどこでも武力行使を行おうとしているものです。その理屈としての破綻を指摘されると、議論から逃げ回っているのは、政権側です。もうひとつ大事なことは、日本がアメリカに期待している尖閣諸島でのトラブルに、アメリカも出てきて中国を追いやってほしい、との要請に対しては、アメリカの言い分は、それくらいのことは自分たちだけで解決しなさい、と言われていることです。そうなると、日本国内向けに政権が構想していることと、本当にアメリカが実行を思い描いていることとが、一致しません。
本欄では以前から指摘していますように、この集団的自衛権における武力行使の問題は、わが国が武器輸出を解禁してしまったことと無縁ではありません。武器輸出をして、部族間抗争を煽って、その隙に乗じて資源を思いのまま輸入しようとする、先進国の魂胆が招いている国際紛争はたくさんあります。そこで、アメリカが保安官然として、正義は我にありと胸を張れるものであるかどうかは、きわめて疑わしい話です。その保安官について行ってしまえば、わが国が、今後国際的にどう評価されてしまうものか、これまた問題が多いと考えられます。
すでに、春の段階でアメリカの議会に対し、新たな日米パートナーシップを夏までに仕上げるとしてしまった、総理の啖呵を反古にさせるよりほか、選択の道はなさそうです。

迷走する政治の行方

2015 年 7 月 19 日

本欄では、ねじれ国会の時代から、国会は迷走を続けるばかりで、国の将来に向かって責任を負うけ気概が見られない、と指摘し、議員の資質の不適切さなどを挙げてきました。その中で、小選挙区・比例代表制の制度を最大限活用して、政権与党となった自民党と公明党は、安保法制の強行採決を行うに至ってしまいました。60日ルールというのがあって、参議院で否決、ないしは審議未了の場合、衆議院に差し戻して、三分の二以上の賛成で法律の制定まで持ち込めるのだそうです。こんなところだけ、憲法を守るのかよ、と茶化したいくらい馬鹿馬鹿しい国会運営がなされています。いい加減だから、滅茶苦茶だから、と非難してみても、実際に法律が制定されてしまえば、国民の意向を裏切ってでも、現実は変化させられてしまいます。ですから、このような法律を通させてはならないと、筆者は強く思います。
それにしても、政権与党側が妙に一枚岩であることに不気味さを覚えます。長老格の人たちが反対を唱えてはいますが、若い世代は安保法案に対し声を挙げないばかりか、マスコミをコントロールして反対論を封殺することを口にして、議員の資質を欠いていることを示しています。その重要性をさえ気づかずに、自分たちの主張だけを今作り上げていこうとしているのです。
筆者のまわりにも、政治ゴロと呼ばれるような人が存在し、多少の金に飽かせて、さも政策通のような顔をしているのを見たことがあります。愚かな選民意識と、少しばかりの金が、わが国の将来を決めていく力になってしまっているのでした。全く情けなく思います。
いい加減な政治の運営に対し、国民が気付き始めていることが、迷走から救い出す力になってほしいと思っています。

台風11号

2015 年 7 月 17 日

ゆっくりと北上を続けていた台風11号は、昨晩高知県に上陸し、まもなく日本海に抜ける見込みです。大潮と一致していたことから、高潮が心配されましたが、幸い大きな被害にいたる事故は報告されていません。筆者の住む関東地方は、台風から遠く離れていますが、昨日も強い雨が断続的に降り続き、今もその名残のような雨です。気象衛星ひまわりからの画像が、テレビの解説者よりはるかに雄弁に経過を伝えてくれます。昔のように観測船を出さなくても、台風の発生から終局まで、上空からの監視ができてしまっています。その結果として、人的被害も少なくなっていることは、喜ばしいことです。
考えてみれば、安全保障にかかる環境が大きく変化してきたからと、集団的自衛権による武力行使に導く考え方が、本当に正しいものか、台風の課題と合わせてみれば、現状の誤りに気づきます。経済成長のために、武器輸出を解禁し、世界全体の緊張感を高めてしまう策を打ち出したのは、まさに現政権です。そのような施策の後に、自衛隊の武力行使を裏付ける法律を作っていくことの自己矛盾を知るべきです。戦後70年間、わが国が守ろうとしてきた平和主義を、このような形で打ち砕いてよいなどと、国民の過半は思っていません。とんでもない話です。
そして、今回の強行採決までに見られた政権党の考え方の間違いのもとは、自分たちが武器輸出をして経済成長を遂げようとすることが、国際緊張を高めてしまっていることに気づいていないことです。やらなければいけないのは、国際関係の中に「ひまわり8号」のような国際間の緊張を和らげ得る装置を作り出し、人が穏やかに暮らせる環境に向かうことなのです。

強行採決の愚

2015 年 7 月 15 日

平和を守ると称しながら、実際には自衛隊に軍事行動を迫ろうとする戦争法案が審議されていました。その法律案を、本日衆議院の特別委員会で強行採決を果たすという愚行がなされました。審議した結果として、国民がの理解が進んではいないことは、首相自身も認めていながら、このようなことに踏み切ったのは、審議すればするほど、法律が憲法違反であることが暴かれ、歯止めと言っていた要件さえ、何も実態を示していないことが判ってきてしまったのですから、闇に隠そうと言わんばかりの強行採決でした。それだけ不備で、法律体系をなしていないものであれば、将来に禍根を残すことは自明のことです。もちろん、まだ、特別委員会の採決を強行したにとどまっていますから、過ちを改める機会は残っています。「国民の理解は進んでいない」と現在を評価したうえで強行採決を図った首相は、国民を愚弄しているとしか言いようがありません。国民の約80%が説明が十分されていない、と考えているのです。
こうなれば、「首相退陣」「法案の廃案」を強く求める声を地鳴りのように国会まで届けるよりほかないのでしょう。継続的な反対の声は、自分の頭で考えようとしない多くの議員に対しても、ボディーブローのように効いてくるはずです。暴挙に対し、反対の声を強めることで、歴史に汚点を記さずに済むよう、行動しなければなりません。

許せないこと

2015 年 7 月 14 日

わが国が集団的自衛権をもっと主張する必要があると、昨年の閣議決定がなされたころのマスコミの捉え方は、対象となる事象として、尖閣列島にやってくる中国の艦船や、ミサイルを日本に向けている北朝鮮をイメージしていたように思われます。ところが、安保法制が国会で議論されているうちに、ホルムズ海峡の掃海作業などを例示するに及んで、どうやら、安保法制で自衛隊が活動する範囲は、日本近海ばかりではなく、世界を股にかけてとなるのだと思わされ始めました。その形は、世界の保安官を気取って来たアメリカが、予算等の問題から縮小せざるを得ない状況になったために、日本に補ってほしいのだというのが、どうやら本音のようだと思わされました。ところが、そのような活動を自衛隊が行おうとするなら、当然それは憲法違反になると、町のご隠居だってそう思います。いわば、集団的自衛権行使の議論が、当初国民に働きかけていたことと内容が変貌してきているのです。それを、国会答弁では詳細に論じることなく、反対派の意見を封じることに腐心するようなだらしない与党になってしまったのです。
そのうえ、すでに日米ガイドラインとして、保安官代行を日本に強制することを、日本の首相はアメリカ議会で約束してしまっているのです。
手順前後もあるし、立憲主義に反していることも多々あり、それでも強行採決しようとしています。許せないことです。少しだけでも声をあげて、この動きにブレーキを掛けなければなりません。

痛ましい事件

2015 年 7 月 13 日

岩手県矢巾町の中学2年生が、学校でのいじめを苦に自殺した事件は、痛ましいだけでなく、そのような中学校が存在したことに強い憤りを感じるものであった。中学校は義務教育とされている。ということは、その場が、通ってくる生徒に対し、死を強要するような事態にさせてはいけないことは当然のことである。そのことに関し、総ての関係者が共同の責任を負っているはずである。死を予感して助けを求めた生活ノートに対し、担任の応答はあまりにも無責任であったと思う。もちろん、担任だけの責任ではなく、学校長も教育委員会も、同じく責任を感じなければいけないことなのだ。そして、教育関係者の基本的な間違いは、「いじめはあってはいけない」と言い張ることである。実際には、人間は愚かな生き物であるから、「いじめ」を行うことで快感を得てしまうものである。それでも、越えてはいけない一線を、管理をする立場の人々は承知のうえで、対処しなければいけなかったのである。
筆者の手元に、中学時代の学校文集がある。その中に、「友達をやっつけておこられたこと」という題の作文が掲載されている。一年生の作文で、学校で起きた話を素直に作文にしている。このような作文は、決して学校の恥なのではなく、素直に書けること、それを文集に採用すること、の方がよほど大切なことなのだと思う。筆者の中学校時代はそのようなおおらかさが学校にあったと思っている。ところが、現在の中学校は、モンスターペアレント対策だけでなく、波風を立てない運営をしようとして、かえって大きな取り返しの利かない波風にさらされているように見えてならない。偏差値輪切りの運営の結果ではなかろうかと、筆者は疑っている。人が生きていくこと、そのものをももっと尊重し合える義務教育であってほしいと強く願う。