大病院の実態(失態)

2014 年 7 月 20 日

今から6年近く前に、こらえられない腹痛を起こし、都内の大きな病院に診断を仰ぎました。結果は、脾臓梗塞を起こしており緊急入院となりました。その後、9週間ベッド生活を強いられました。不摂生な生活を続けてきた報いなのですから、誰かに文句を言うことではないと思いつつ、天井から綿ぼこりが垂れ下がる下で病院食を食べさせられる哀歓を、医者である友人にメールで送ったところ、「この病院ですから、診立てに間違いはないでしょうが……」という返信が届きました。
確かに、病気を診る目は確かな感じがしました。しかし、心細い入院患者としては、どこか冷たさを感じて、友人に嘆きのメールを送ったりしたのでした。退院後も、定期検診を続けていましたが、3年が経ってから、次のような体験をしました。腹部エコーの撮影に基づいて診断される担当の医師に、半年ごとの次の診察日を指定されました。その日は、世間はお盆の休暇にあたるような日でしたが、指定した医師は、年度末に移動する予定なので、自分のこととは考えもせずに、一方的に通告したのでした。まだ先のことだし、変更が必要なら言ってくるだろうとたかをくくって待っていました。ところが、ある日、事務所に出かける途中の携帯電話に連絡が入ったのでした。電車に乗っていたので、出られないとのメッセージを発したはずでした。すると、わが家から携帯電話にメールが入り、その病院に急いで連絡してほしい、番号はこちら、と連絡されました。電車を降りてすぐに電話を架けました。ところが、大病院ですから、先方が言っていたとおりのことを交換手に告げても、簡単にはつながりません。経過は推定できていましたので、予約担当の部署ではないかと添えると、ようやく電話はつながりました。
経過を話して、「そちらから緊急に連絡せよ」と指示されたので家人は慌てていましたよ、と告げると、いったん電話に出ていた担当は上司と入れ替わってしまいました。再度、その日に起こったことをその上司に告げると、予約変更を病院の都合でお願いしなければならない時に、たいへん申し訳ない連絡の仕方をしてしまいました。交代した医師が、予約担当者に厳しく変更指示を出したのでしょうが、それを患者さんへの負担にしてしまう連絡方法をとってしまったことはお詫びします。というのです。そう言われてしまえば、こちらの苦情を重ねる気はありませんでしたが、その病院との腐れ縁をおしまいにしようと思ったのでした。
大病院は病気を診るのには長けているけれど、患者と向き合うことはどうも苦手のようだ、という病院批判を聞くと、わが身の体験からもおもわず賛成したくなるのです。

リスク管理

2014 年 7 月 18 日

聞きかじりのラジオ番組からの思いの流れですから、筆者の誤解や曲解があるかもしれません。聞きかじった番組のどこに最初の関心があったかと言えば、「中学校時代など、異性への関心が高まった時に、素直に自分の心に向き合うことをすれば、他人との関係の作り方が理解できて、その後になってからのストーカー的な行動を防ぐことができるでしょう。初期における相手への恋愛感情をそれなりにコントロールするのは大切なことなのです」という解説者の話でした。筆者の中学生時代を思い出すと、異性への思いは目覚めていたものの、それよりももっとストイックな生き方があるはずではないか、と敢えて目を背けたところがあったような気がしています。あのころ、もっと自分の心に正直になっていたら、果たしてどのように人生は変わっていたのでしょうか。
筆者の周辺を見てみると、異性に対しきわめて高い関心を持ったまま成人し、そのことが人生を不幸に導いてしまった人を知っています。ですから、関心を持つことは間違いではないとしても、適度なコントロールができるかどうかが問題なのではないかと感じたのでした。もちろん、こだわり過ぎずに適切な人間関係が築かれるなら、それに越したことはないでしょう。
ただ、この解説者が指摘する内容に、とても共感するところがあったことも確かでした。それは、人生生き続けるには、どこかで失意の総括を自分で行うときがあるはずです、ということです。どんなに恵まれた環境にあっても、自分の思い通りにだけ結果することなどあり得ません。どこかの独裁者でさえ、思い通りにはならずに、瞬間的な誤った指揮をしてしまうのですから。その「失意の総括」を自分が生きていくうえで役立たせるものかどうか、人生はそこにかかっている、という指摘でした。
考えてみれば、これまでたくさんの失意の総括があったのかもしれません。しかし、そこから生まれた小さなこだわりが、歯を食いしばってでも頑張れる力になったのも事実のようです。
一番感じたのは、筆者が中学に入る前にこのような解説番組にどうして出会えなかったのか、という思いでした。

原子力規制委員会

2014 年 7 月 17 日

原子力発電所の再稼働を求めて、規制委員会に適合基準を満たしているかどうかの審査が求められています。その中で、最初に九州電力の川内原子力発電所に関し、昨日適合基準を満たしているという審査報告がなされました。この報道で強く感じたことは、規制委員会の田中委員長は常につぎのように述べています。「基準に照らして満たしているものであります。決して安全であると評価しているものではありません」ということです。ところが、首相や経済界のメンバーなどは、「規制委員会が安全であると判断したのだから、これで再稼働だ」とはしゃいでいます。
この両者の見解の相違に、原子力発電所の安全性の大きな問題点が含まれているのではないか、と筆者は感じています。すなわち、規制委員会の立場からは、「これならば安全である」と言い切る論拠はまったく出てこないのです。福島第一原子力発電所で起きてしまった重大事故に対し、関係者のほとんどが「想定外」と表現して自分たちの責任を逃れようとしました。それならば、現在進められている規制委員会の審査基準は、考えられるすべての災害要因に関し、配慮しきれているのでしょうか。私たちは自然現象のすべてに対し、それほど正しい経験を持ってはいません。起きてしまって初めて「想定外」という言い訳をしてしまうのです。
要するに、その程度の技術レベルで、原子力発電所を運転してもよいものであるのかどうか、について議論が深められていません。にもかかわらず、現政権は、規制委員会が再稼働へのお墨付きを出してくれたのだ、との判断をしてしまっています。
本欄では、この問題に対し、事故調査委員会の報告をしっかり読もうと試み、その結果として、国会も政府も、基本的な正しい対応をしてきていないのではないかと指摘しました。まずは、福島の原因究明を正しく実行することが、再稼働への第一歩であるべきです。それなのに、議論をすり替えて、再稼働できるのだとはしゃいでいる人に、国民の明日を委ねる木本にはなれません。

アメリカ大リーグのオールスター戦

2014 年 7 月 16 日

今年のオールスター戦には、渡米初年度のヤンキース田中投手が出場できるものと期待していましたが、故障が発覚し、残念ながらその活躍は来年以降になってしまいました。それ以上に今年の大リーグの注目を集めたのは、今年度限りで引退を表明しているヤンキースのジータ遊撃手でした。最初の打球が、ジータ選手の横を襲い、横っ飛びでこのごろを捌いたものの、俊足のバッターがわずかに優って内野安打となる出だしでした。この選手の生還は許さずに迎えた裏の攻撃は、先頭打者に抜擢されたジータ選手からでした。ライト線に二塁打を放ってゆうゆうとベースに達し、次の打者の3塁打で最初の得点を挙げたのでした。
ジータ選手は次の打席でもライトへヒットを放ちました。そのあとの守備の機会で、いったん守備位置に着いた後交代し、ファンの歓声を得られるようにした演出も心憎いものがありました。オールスター戦全般に、投手は150km 以上、打者はそれをものともせずはねかえそう、という雰囲気が感じられて、さすがと思わされるものでした。勝利したリーグにワールドシリーズの開幕権が与えられるという目標も、それなりのモチベーションになっているようです。わが国の複数試合を行うのに比べ、たった一度だけの戦いですから、まさしく夢の球宴と言えるものでした。
その中で、ヤンキースのジータ選手が立派な輝きを見せてくれたことは、スポーツの良さを改めて強く感じました。他のメンバーの多くが、ジータ選手の活躍ぶりに刺激されて大リーグへの歩みをたどったのですから、一緒にプレーできてどれほど感激したものでしょうか。
最近は、わが国の高齢の選手も多くなってきています。身体の手入れなどが、以前よりうまく行われているからかもしれません。しかし、今年のジータ選手が与えた感激を、わが国の高齢の選手も同じように見せられるかというと、ちょっと疑問が残ります。安打数、とか、勝利数、などの個人記録ではなく、ファンへの感動を与えようとする選手であってほしいと、アメリカ大リーグのオールスター戦をテレビ観戦して感じたのでした。

武器輸出問題について

2014 年 7 月 15 日

アフリカのソマリアが海賊国家になってしまったのはなぜでしょうか。先進国と呼ばれる国々が、アフリカに無節操に武器輸出をして、部族間抗争を助長し、国家として安定する道をとだえさせてしまったことに大きな原因があります。表の社会では、アフリカの時代です、などと響きの良い話をしていながら、実際には武器輸出をして国家としての安定性を奪い、その隙に乗じて資源を安く調達しようと企んでいたのが、先進国と呼ばれる国々です。最近では、中国もその意味では立派な先進国になりました。
このようなアフリカ諸国の動きの一環に、ソマリアの海賊国家化があったとも言えるでしょう。先進国は武器輸出をしてその代償に資源を買いあさったのです。この状態は、21世紀型の植民地主義とも言えます。
わが国は、このような先進国と一線を画して、武器輸出を行わないことを国是としてきました。ところが、現政権は、この国是も破り、経済界もこの禁を破ることで経済成長を果たせるのだ、と主張しています。まったく情けない話です。普通の国になるということが、このよあな歴史の評価に耐えられない国になって行くことではないはずです。
さらに言えば、このような取り組みの上に形として出来上がった「経済成長」が、本当に国民のためになるものでしょうか。瞬間的な金の動きだけに一喜一憂する情けない国家に堕ちていくだけではないですか。国会の論戦を聞いていても、この種の問題に対し、本質を突いた意見を述べる議員が全くいないのが不思議です。
本欄で再三にわたって指摘してきた、国債発行によってかさあげした経済成長は、本当に国のためになっているのか、という入口のところから、もっと謙虚に反省すべきでしょう。

サッカーワールドカップ決勝戦

2014 年 7 月 13 日

わが国が予選リーグで敗退したこともあって、熱狂的な応援風景は見なくなりましたが、関心を持っている人はなお多くいるはずです。地元のブラジルが予期しない出来事で、3位決定戦にも敗れてしまいました。決勝は、アルゼンチンとドイツです。下馬評では、ドイツ有利だとか。明朝の決勝戦をLIVEで見る時刻に目覚められるでしょうか。
決勝リーグをテレビ観戦していると、わが国の至らないところがどこか気づかされる感じです。ピッチ全体を覆う緊張感が、敗れていったわが国のチームと決勝リーグ参加チームとでは少々違うと思わされます。また、審判の判定にすがらなくて良いほど、相手のファールを凌駕する動きにも感心させられます。やはり、この一段上を目指して、次回のワールドカップにも出場してほしいものです。地区予選を勝ち抜いたところで満足するのではなく、決勝リーグで見られる高度な戦いを身に着けてほしいものです。
そのためにも、傑出した選手の出現を期待しますが、それと同様、ドイツチームのように多彩な展開力を培ってほしいものです。そうなると、当たり前のこととして、個の力の向上と、監督の描く構想を選手が正しく理解することが待たれるわけです。
選手の個性をマスコミが面白がって書くことが、チームの足を引っ張ると思わされこともありますが、そんなことは克服すべき課題の中では、小さなことです。勝ってほしいと強く思いますが、だからと言って、勝利至上主義が表に出るようなことはあってほしくないと、ファン心理の一環です。
少なくとも、4年後までに、FIFAランクを少しでも上げていることが必要です。ランクの下位にいて、なんとか番狂わせを期待するのはなしで、本当に強くなり、他国から一目置かれる位置に達してほしいものです。
睡眠不足になるのもあとわずかです。

留守番電話

2014 年 7 月 12 日

携帯電話、スマホが主流となって、固定電話へ架ける機会が少なくなってきました。それでも、企業への連絡は、固定電話に頼ることが、まだ多いのが実情です。固定電話に連絡すると、時間外の場合は、留守番電話に切り替わって、営業時間、営業日などを伝えてくれます。そのことは、当然のサービスとして、電話を架ける側にも納得できる話です。
先日、たまたまある営業所に電話を架けたところ、留守電に切り替わりました。ところが、先方のアナウンスが伝える営業時間にすでに入っていることが、手元の携帯電話の示す数値で判ってしまったのです。不思議なもので、わずか数分のことですが、このような体験をすると、この営業所のサービスの基本姿勢に大きな疑問を感じてしまったのです。しばらく前の時代でしたら、正確な時刻をお互いに知ることもなく、このような営業所の行為は誰も咎めたりすることはなかったでしょう。しかし、現在ですと、営業所の怠慢が即座にお客に判ってしまうのです。営業開始前には、メンバーが配置についているはずですから、担当者が留守電からの切り替えを行っていれば済むことなのですが、それが為されていなかったために、信用を失うことになってしまうのです。複数の営業マンがいる事務所ですと、このような段取りに不徹底なことが起きてしまったのでしょう。
そのあと、この営業所に顔を出して、朝のいきさつを伝えました。聞いた事務員の対応を見ると、どうやら、このようなことは初めてのことではなかったようでした。営業においてもっとも大切にしなければならない「信用」を培うことは、もっともっと大切にされなければいけないと思わされた体験でした。

孫子の兵法

2014 年 7 月 10 日

集団的自衛権の行使を容認すると閣議で決定されましたが、関連の法律を議会に提出するまで、議論を閉ざすことで当面の反論を無視しようとする、姑息な手段が発表されました。無理やり既成事実を作ってしまい、その瞬間には「国民的議論をこれからしっかり行っていただき」とか口にするものの、あとは、ひたすら自分の目指す「戦後レジュームからの脱却」という方向に向かうかのようです。武器輸出を日本の財界が支持するのは、はたして本当に当然なのでしょうか。軍需産業の肥大化は、いずれ、国民を参戦させようとする力になってしまうことは、戦前のわが国のことだけではなく、世界全般の歴史を見れば自明のことでしょう。それだけに、戦後の平和国家日本を担ってきた自負を持つ経済界はもっと骨のある対応をするのかと期待していましたが、結局は、目先の金権支配にだけ手を貸そうとするのですから、これまた情けない話です。
積極的平和主義と称して、なんでもありの国家に我が国を変えていこうとする動きは、これまで、平和国家日本の道を困難はあっても進めようとしてきた人たちの努力に対し、まったく許せない行動です。たしかに、平和な状態を作っていくことは決して簡単なことではありませんけれど、国連で活躍した緒方さんのように、高潔な生き方の中から、平和への努力の足跡が生まれてくるのです。これらの今までの人たちの動きを蔑ろにする行動としても、許せるものではありません。
孫子に曰く、戦わずして勝つことこそ、戦術として最も優れたものである、ということを、国民全体でもっとかみしめるべきではないでしょうか。

時代を動かす責任を

2014 年 7 月 8 日

昨日は、現在のわが国が、大きな進路変更を伴う、時代の変化の中に突入していることを指摘しました。ところが、多くの国民は、そのことを正しく理解する機会を与えられないまま、従わざるを得ない状況に置かれているように見えます。このまま無節操に進んでしまっては、将来的に国民が不幸せにされてしまうばかりではなく、これまで平和国家日本として努力してきたすべてのことが否定されてしまう恐れを強く感じています。オーストラリアを訪問し、武器輸出をして経済成長を遂げるのだ、と主張する首相の姿を情けないものと見ています。
アベノミクスという、通貨膨張による瞬間的な景気回復をもたらしたことが、このような政権の暴走につながっていることに対しても、不安を感じています。株価は、社会の指標の中で、決して国民の将来を約束できるようなものではありません。国家として、将来にわたって自立と健康を裏付けるための施策が、現政権から出されて来ていません。口先だけでは、国民の安全と安心を守ると言っておきながら、平和国家としての努力を放棄していくことは黙って見ていられません。
これらの方針転換が、国民の投票行動に付されてから出てきたのであれば、まだ納得できますが、目くらましの株価対策で圧倒的多数を得てから、次々と実行に移されていくことも懸念しています。
もう少し経つと、通貨膨張のつけが回ってきますし、年金支給額の減額が伝えられてくることでしょう。それらは、自然現象としてなったわけではなく、政権が選択したいくつかの行為の結果として現れてくるのです。
政策立案に責任を持たない政治家グループを「政党」などと呼ばなければならない、きわめて貧困な国にいることを嘆いています。

時代が動く

2014 年 7 月 7 日

憲法で武力行使を行わない、という方針を明示していたとしても、その国に自衛権が存在し、武力行使も辞さない、とする姿勢を認めないものではありません。ところが、現政権が集団的自衛権による武力行使を容認するとした閣議決定を行ったいきさつに関しては、おおいに疑問を感じています。なによりの問題は、現政権が近隣各国との平和外交を積極的に行おうとせずに、武力行使やむなし、と思わせる風潮を作り上げようとしていることです。東西冷戦構造が固定していた時代から、東側が雪崩を打つように崩壊して行ったのは、決して遠い昔ではありません。この時代の変化をよく読み取れば、西側だけが決定的に優位であったからではなかったことがわかります。「国」というものの自己の優位性を示そうと励むことが、「国」の将来を閉ざしてしまう、という矛盾があるのです。アメリカがスペースシャトルの事業を継続できずに、宇宙ステーションへの往復を目下ロシアに委ねていることを見れば、判ってくることです。
そして、エネルギー消費拡大だけが、経済成長を促すものであるかのような、各国の動きは、エネルギー資源を自前で調達できる国と、そうでない国との格差を広げています。世界全体で、どのような将来像を描いて、国の将来への主張をまとめているのでしょうか。宇宙ステーションから戻った若田さんが「地球は一つなのだ」と述べた感慨に込められていたことを、もっと深く考えるべきでしょう。また、兵器の輸出に経済成長を託したいとする現政権の方針は、わが国の行く末に対し、本当に責任を持てるものでしょうか。武力をそのような安直な思いでとらえてしまう愚かさを、国民は首相に任せているのではありません。
戦後レジュームからの脱却と旗を振って、国の将来像を正しく描けない現政権に対し、強くNOを主張します。