写真屋さんの閉店

2014 年 4 月 18 日

本欄で閉店を伝える話は、「文房具屋さん」「眼鏡屋さん」に続いて三つ目です。今日の話題の写真屋さん以前に、通っていた写真屋さんですでに10年以上前に閉店してしまったところがあります。そのお店は駅に近い場所でしたが、いつのまにか自転車の預かり所になっていました。当時はまだデジタルカメラが普及し始めていた段階でしたが、それでも商売にならなくなったからだったのでしょう。そして、しばらくはデジタルカメラで撮影した写真をどのように焼き付けるのが良いか、よく理解できないまま、写真屋に持って行っては歯切れの悪い対応をされたものでした。
写真機からメモリーを抜いて持って行き、自分で操作して焼きたいものを選択するという方法がようやく理解できたのが数年前のことでした。その操作でできた写真に満足していたのですが、そのお店が閉まってしまうというのです。どうやら、こんな面倒なことをせずに、自分で写真を焼くことが一般化してきたために、専門職の写真屋さんはやってられない時代になったのだというのだそうです。ようやくたどり着いた安定した写真の焼き付け方法が、これで失われてしまいます。代わりの手法を身に着けられるか、少々心配しています。
遠い昔、学校時代の写真屋さんは、遠足などの行事に随行してくれて、クラスごとの集団写真を撮ってくれたものでした。大きな写真機を携行して撮ってくれた写真は、たしかに素人写真とは違ってきれいに写っていました。そして、そのころは記録した写真の数が少なかったこともあって、昔をしのぶには大切な役割を果たしてくれています。学校行事に携わっていた写真屋さんも、現在の風潮の中で、役割を終えてしまうのでしょうか。
しばらくは、自分で撮った写真の始末の仕方を習得する期間になりそうです。

ハナミズキ

2014 年 4 月 16 日

桜が散って、ハナミズキやつつじの花が目を楽しませてくれます。ハナミズキは、桜のソメイヨシノのように、一斉に咲かないのが特徴ともいえます。それに、花をたくさん付けるものと、葉が旺盛なものなど、個体によって微妙な違いも楽しませてくれます。刈り込まれてあまり大きくならない印象ですが、実際には伸び伸びと育てれば、相当大きな姿になります。咲き方や花のつき方が個体によって別々であるだけに、結構長い期間花が咲いている印象を持ちます。
駅に行く途中、手入れの行き届いた庭に、赤と白の大きなハナミズキがあります。このふたつは、毎年ほぼ同じ時期に咲くのは、そのように管理されているからでしょうか。その庭を望む道路の街路樹がハナミズキなのですが、こちらはきわめて個性的に育っているようです。この時期は、そのような違いを見ながら駅まで歩くので、いちもより早くつくような気がします。
つつじの花の色鮮やかさは毎年感心させられます。刈り込まれた表面をすべて覆うように花がついているのは、これもまた丁寧な管理の結果でしょうか。歩いていても、まだ厚さを感じることもなく、ハナミズキやつつじに励まされるように過ごしています。

公認球

2014 年 4 月 15 日

一昨年プロ野球で使われる公認球が、「統一球」の名前のもと、飛ばないボールが採用されました。その結果前年に比べホームランの数は少なくなり、投手戦が増えました。一年が過ぎると、ホームランは野球の花でもあるからと、飛ぶボールに戻そうとなんの宣告もせずに変更されました。ところが、そのことをコミッショナーが知らなかったと言い張って、余計にダーティーな感じを与えてしまったことは、皆さんご承知の通りです。
そして今年、解説者が「去年よりも飛ぶボールになっている」と報道銀組の中で指摘していたように、事務局で確認したところ、公認される反発係数の範囲を外れるほど「飛ぶ」ものが使われていたと判明したのです。このことは、二つの大きな問題点を明らかにしています。一つは、公式に宣言している範囲を逸脱したボールが使われていたことです。そもそも、このような範囲外のものは締め出すために「公認」の権威付けをしているはずなのにです。確認したら反発係数は上限を超えていました、という報告は、言い訳としては通用しないものです。事前にチェックしてこそ「公認」のレッテルが張れるはずですから。それでも、隠すことなく公表したのは、昨年とは違うコミッショナーだったからでしょう。
もう一つの問題は、このボールを製造した会社が、用いた材料の水分が高かったことが反発係数を高めたと考えられる、と発表して平然としていることです。反発係数が素材のそのような性質に影響されるのであるなら、用いる素材の水分などを厳格に指示した製造マニュアルがあってしかるべきです。それを今頃このような言い訳をしているのだとしたら、「公認」を掲げるスポーツ関係者として失格です。
スポーツはすっきりした環境で行われてこそ、観戦しても、地震で運動しても、後味がすっきりするものです。残念ながら、今回のプロ野球の公認球問題は、少し気持ちを暗くしてしまうものでした。

消費税8%

2014 年 4 月 14 日

消費税が上がって半月近くが過ぎました。とりたてて、生活が変わった感じはありません。新聞の料金に反映されたものと、そうでないものがあるようですが、気になるほどではありません。報道では、駆け込み需要の反動で落ち込んでいる業界を取り上げたりしていますけれど、駆け込み需要をあおっていたわけですから、業界自体も織り込み済みの話でしょう。3%上昇させた結果が、政府・国民それぞれの思惑に対し、どのように結果するのでしょうか。
注目しなければならないことは、この程度の消費税の値上げでは、財政再建に向けてのスタートさえ切れていないことです。だからと言って、増税分がうやむやになってしまって良いわけではありません。厳しく国民は見守らなければいけないのですが、それを保障できるほどマスコミが正しい報道をしてくれるかどうかに、若干の疑問を抱いています。個別の事象でなく、国民負担率の変化と政府支出の構造変化を読み解いて、国民に知らせてほしいものです。
官僚政治からの脱却を謳っていた「みんなの党」で、元代表が失脚する結果となってしまいました。掲げていた最も大切なスローガンがこれで消えてしまうのではとおそれています。自分でコントロールできる予算がどれだけあるかばかりを考えるのではなく、自分がコントロールした予算が、本当に国民のために役立っているのか、について国民も官僚ももっと考えるべきです。いったんお上に税金で持っていかれると、それにいかにたかろうとするかばかりの国民では将来はありません。
それだけに、脱官僚を掲げた政党が今回の不祥事から立ち直ってほしいと願っています。
国会で圧倒的優位な議席を持つからと、暴走を始めている現政権を危ういものとも感じています。

車内放送

2014 年 4 月 12 日

電車に乗ると、次の駅や乗換案内など、車内の放送はとても大事なことだと感じています。それでも、ちょっと疑問を持つこともないわけではありません。たとえば、他の事故のあおりを受けて数分程度の遅れが生じたとき、「大変申し訳ございません」という常套句を必ず付け加えます。それが誠意と受けられる車掌さんと、ただマニュアル通りで話しているのだと思わせる車掌さんがいます。車掌の指導員が丁寧に教えても、心の内がどこかから漏れてしまうからでしょう。
筆者の乗る電車は、風の影響を受けやすく、遅れたり、時には運転見合わせとなったりすることが多い路線です。このような時こそ、車内放送は、遅れの経過とお詫びを丁寧に述べる必要があると思います。ところが、車掌さんによっては、このような不都合を生じてしまったのは自然のせいなのだからと、少々居直ったアナウンスをしてしまう人もいるようです。これは、最初にも書いたとおり、一人一人の心の持ち方次第でもあるのですが、聞いていて、ちょっと違うのではと感じます。乗客にすれば、又かと思って仕方ないなと誘導できるか、改善策を取ろうとしないJRが悪いのだと感じさせられるかは、かなりの部分車掌のアナウンスのトーンに支配されます。
たぶん、JRとしては、どの車掌さんでも、乗客の心に寄り添えるようなアナウンスをするよう指導しているのだとは思います。しかし、残念ながら、その思惑は十分浸透できていないと感じてしまいます。もしかして、聞く方の乗客の心が荒み始めているからなのかもしれませんが。

自動改札

2014 年 4 月 9 日

子どものころ、電車に乗るときは、出札口で切符を買って、改札口の駅員さんに鋏を入れてプラットホームへ入りました。駅員さんは、お客さんが来ない時も、鋏をカチャカチャ鳴らして、リズムを作っていたものでした。定期券を初めて使ったときには、それまでの切符で乗っていた時より、大人に扱われた気がしました。
いつの間にか改札口から駅員さんがいなくなって、はじめは定期や切符の磁気式記録を改札口の装置が読み取る方式でした。最近では、乗車用のICカードで用が足りるようになりました。駅員さんとの交流はもうなくなってしまいました。このICカードで入場・出場しますが、時々トラブルが起こります。機械が「もう一度タッチしてください」と言われた経験を持つ人は多いでしょう。こちらがとくに落ち度があったわけでもないのに、このように言われたりしますから、定期券を親の敵のように読み取り装置に押し付ける人がいたりします。
よく見かけるトラブルとして、出場も入場もできる装置に、反対側から来る人と、どちらが先にタッチするかの先陣争いが見られます。お客さんの流れの関係で、この両用の装置が必要なのですが、お客同士が微妙な駆け引きをしているように見えます。割り込みをして先をとろうとする人もいます。いつかそのような人と出会ったとき、相手の定期より一瞬先に自分の定期をタッチできました。「この無礼者め」と厳しい視線を先方に送ったものです。一度、筆者がタッチした瞬間に相手も同時に改札口を通過できましたが、きっと出場記録が残っていないために、次の改札口通過の際に、止められたことでしょう。
すっかり一般化した自動改札機ですが、微妙な人の動きが見られます。

20年前

2014 年 4 月 6 日

今から20年前の平成6年は、前の年のお米の出来が悪く大凶作となって、国産米だけでは秋までもたないと、「ワールドライス」と呼ばれた、輸入米と混合したお米が売られていました。たしかに、前年の大凶作もその原因ではありましたが、当時農林水産省では、備蓄米をどんどん減らしてしまっていたことも、その原因の一つでした。備蓄米は、政府に管理費ばかりかけてしまい、備蓄の効用が認められないとばかりに、その役割を外されてしまっていたのでした。その結果平成5年度の収穫量が少なかったことがもろに響いてしまい、国民はワールドライスを強いられたのでした。
お米をはじめとした穀物は、貯蔵性に優れています。ですから、適度に備蓄しておけば、少々の気象条件が変わろうが、安心して生活できるのです。しかし、平成5年直前の政府の判断のように、適正な備蓄さえ削ってしまっていては、すぐに海外からの輸入に頼らなければならなかったのでした。
オバマ大統領の訪日を前に、TPPの交渉を決着させなければならない、というムードが生まれてきています。伝えられている現在の交渉経過からは、安倍総理がTPP参加に踏み切った時に示された、アメリカの譲歩案が後退してしまっているように感じられます。
それよりも、TPPの理念に、日本の参加意識が合致していないように見えます。日本が国家としてどのような食糧政策をとるのが妥当なのか、ほとんどの人がこの課題に対し思考停止状態に陥っているように見えます。その日その日は、何とかしのげていても、自然災害などで、突然の事態が生じないとは限りません。
何が適正で、私たちはどう備えなければならないのか、20年前の失敗から学ぶべきことがあるように思っています。

津波注意報

2014 年 4 月 3 日

昨日チリ近海で発生した地震による津波の注意報が出され、各地の潮位の変化などが報じられています。半世紀余り前に三陸で大きな被害をもたらせたチリ津波地震に比べると、昨日の地震は規模は小さいものでしたから、「警報」ではなく、「注意報」として発令されたのは当然のことです。ただ、これを伝える報道機関の口ぶりが、少々惧れ過ぎの感があります。たしかに、東北大震災で経験した3年前の津波はとても恐ろしいものでした。そのことと、今回は注意報である、という区別が不足しますと、結局オオカミ少年的な警告になってしまいます。そのことを恐れるものです。
自然現象が私たちの生活にさまざまな影響を与えますが、そのことを正しく恐れ、正しく対応することは相当難しいことです。今日の津波注意報が報道機関にどのように消化されているものか、そして、受け手である一般市民がどう評価できたか、大切な検証課題だと思います。
東北大震災の揺れは、たしかに「想定外」のことでした。地震学者の多くが取り組んでいた地震予知の対象よりはるかに大きな地震だったのです。しかし、土の中に隠された過去の現象からは、たしかにあり得る規模であったことは確かなのです。それなのに、「想定外」に置いてしまった学者たちの至らなさはどこにあったのでしょうか。
貞観時代以来という驚きは、貞観時代にはあったということにほかなりません。正しい想定と、正しい対処の在り方を、今日の津波注意報を例に深く考えることだと思っています。

桜満開

2014 年 4 月 1 日

雪が二回も降って、寒さがいつまでも続き、春の訪れを遅く感じた今年ですが、4月に入った今日、隣の中学校の桜は満開になっています。クラブ活動にやってきた中学生達は、大人ほど感慨を持たないのかもしれません。筆者自身のことを振り返っても、桜に季節感を強く持つようになったのは、不惑を過ぎてからのようです。満開になった桜を見ると、少しでも長く咲き続けていてほしい、という気がしてきます。あっさりと新緑に引き継いでほしくない、華やかな花を少しでも長くと、思います。
それでも、これからの一週間くらい、散り始める桜に、また異なった感慨を持つことでしょう。卒業式、入学式の式辞の中に「桜」が出てくるのは、関東以西の地域では当たり前です。一時住んでいた東北は、桜の季節は、もっと遅くなります。場所によっては、ゴールデンウィークが桜満開の季節となります。雪が深い年は、桜の開花が遅れます。今年はどうなのでしょうか。一昨年ゴールデンウィークの桜を見ようと東北を訪れた知人は、散ってしまった桜に迎えられたそうです。
筆者の経験でも、福島県三春の滝桜は、三回目で初めて満開に会うことができました。それだけタイミングが難しい桜の開花だけに、ぴったりと開花があって、その上天気にも恵まれると、その年一念がうまくめぐるような気がするのです。
三年前、大震災で桜どころではありませんでした。満開の桜を見ながらも、被災者への思いは大切にしたいものです。

枇杷の摘果

2014 年 3 月 29 日

実生の枇杷を、観葉植物的に育てていたものを、家を購入して庭においていたら、ポットを突き破って根を伸ばし、いつの間にか大きな枇杷の木になってきました。今年の雪では、幹が折れるという災害もありましたけれど、実をつけ始めています。まだ咲いていたり、これから咲く花もあります。実がつき始めると摘果作業が必要になります。一房で数十を超える実を数個まで減らします。収穫の喜びを期待しながらの作業であっても、結構つらいところがあります。上を向いて行う作業ですし、脚立を使って高いところまで作業しなければなりません。
作業に飽きてきたころ、道を歩く人に声を掛けられました。「枇杷ですか」「はいそうです。実がつき始めたので、間引きをしなければなりません。人と同じようなものです。」と言うと「人とは違いますよ」と声を掛けてきた人からの答えです。たしかに自分でも言ってしまってからどこか変だと気付きました。そうです、枇杷は収穫するときに大きくなってほしいから、間引いて残った実に栄養が集まるようにするのです。ところが、人は、生まれてきた人の生涯をそれぞれに全うすることこそ大切なのですから、間引きなどがあってはいけないのです。
本欄では、教育の目標がずれてしまって、あたかも、間引き作業のような教育に堕していることを強く指摘していました。ところが、筆者は、枇杷の間引きをしていて、普段の主張と反対の対応をしてしまったのでした。瞬間的なことでしたから、深く考えていなかったからでしょう。でも、自分の口から出てしまった言葉のあやまりに、気付いて反省しているところです。そして、教育を間引きに利用しようとしている教育界全体の病んでいるさまが、自身の間違った発言で改めて理解されるのでした。