要人暗殺

2017 年 2 月 22 日

北朝鮮のトップのお兄さんが、マレーシアで暗殺されました。いまどき暗殺が行われるとは思っていませんでした。8年余り前、アメリカでオバマ氏が大統領に選出された時、任期半ばで暗殺されててしまうのではないかと危ぶんだことがありました。この危惧は杞憂に終わり、ほっとしましたが、オバマ氏の理想は現在悉くひっくり返され始めています。この現実の方が暗殺より以上に残酷なことかもしれません。核廃絶などを理想として堂々と口にした大統領でしたが、現在のアメリカ国民の将来への選択はどのように進むのでしょうか。
それはそれとして、マレーシアで発生した暗殺事件は、詳細まで監視カメラに撮影されており、事件の表面的な部分は解明できるものと思われます。ところが、被害者が本名を名乗れない状況に追い込まれていたことを思えば、真相の解明の困難さがうかがわれます。本名を名乗らせなかった国が、今回の実力行使を仕掛けたのであろうと、全世界の人たちは推定するでしょう。だからこそ、これからの解決への道のりの困難さが理解されるのです。国を挙げての犯罪行為であれば、その経過が露見してしまえば、国自体へのペナルティの与え方が簡単ではありません。間違えれば、国同士の戦いへの引き金にさえなってしまうかも知れないのです。この事件だけでなく、世界全体が寛容さを失っているかに見えるだけに、事件の解決がきな臭くならないことを、今は願うばかりです。自分の地位に影響を与える可能性のある人を次々と殺して行っても、その先に安心は生まれてきません。他人を疑う気持ちばかりが優先して、自分の行動が猜疑心に引きずられるだけになってしまいます。本人にとっても、決して居心地の良い生き方ではなくなってしまいます。無軌道化してしまったこの権力者への制裁を非合法に行おうとしている話さえ聞こえてきます。そうなってしまえば、闇はもっと深くなってしまいます。誰かが、正気を失わずに、今回の事件を穏やかに収めてほしいと、無理と知りながらも期待するのです。

怪しい話

2017 年 2 月 19 日

大阪にある私立の幼稚園を経営している法人が、二つのことで話題となっています。正確に言えば三つのことかもしれません。ひとつは、この法人が小学校開設のために国から払い下げられた土地の価格が低すぎたのではないのかと言う指摘です。その話は、豊洲の問題の裏返しのようなことで、この土地には購入後に手当てをしなければならない問題があったので、そのための経費を割り引いたことで、周辺の土地よりはるかに安い単価になったのだと、国の関係者は説明しています。外から見る分には、不透明なところがあったようですから、正しく真相が究明されてほしいと思います。二つ目は、この幼稚園が、ヘイトスピーチ禁止法に触れる内容の文書を保護者に配布したことです。その表現は子供の教育に当たるものとしてふさわしくないと筆者は感じます。だからこそ、大阪府が条例に基づいて、指導を検討する事態となっているのです。困ったことに、このようなヘイトスピーチ問題に悪乗りする人種が増えてきており、社会の不寛容性を高めようとしています。このような動きは決して望ましいことではありません。まして、教育に携わる人がこのようなことを扇動することなど許されないと思います。この幼稚園の園長が信条として、教育勅語を尊重することはあっても良いと思いますが、その延長で周辺諸国を口汚く罵るようなことは、とても恥ずかしいことです。少なくとも、教育勅語の思想からは逸脱しています。
三つ目の問題は、この幼稚園に安倍首相夫人がかかわっていることです。そのことと、前に述べた国有地の安価な払い下げとは直接は関係ないことでしょう。しかし、首相夫人は半ば公人ですから、このような問題が起きる幼稚園からは、距離を置くべきだと筆者は思います。最近は、閣僚の中でも平然と憲法無視のような態度を取る人がいますが、憲法を先頭に立ってまず守らなければいけないのは、高級公務員たちや政府関係者です。憲法を壊そうとしている動きに、現在の政府が加担しているようでは、国としての姿を失ってしまいます。

報道機関はどう反省するのだろうか

2017 年 2 月 17 日

最近の報道機関の伝え方に、強い違和感を覚えます。国会の審議で、どちらに非があるのか明白なことであっても、非が政府側にある場合には、そのことを正そうともしないのです。以前総務大臣が誤った放送法の定義を国会で開陳し、その延長線上の規制に報道機関そのものがからめとられてしまっているようです。ですから、問題になっている南スーダンの戦闘の問題や、もっとわかりやすく言えば「アベノミクス」のいい加減さ、などに報道機関としての判断を全くしなくなっているのです。日報を廃棄したということで、答弁を終えようとしたことも大問題ですし、日報の存在が出てきてしまったら、言葉をいい加減に使い分けようとしていることも許せない姿勢です。それらのことを正しく批判してこその報道機関のはずなのですが、間違った総務大臣の発言にすっかり萎縮してしまい、正しい批判さえしなくなっています。今から70年余り前、第二次世界大戦が終わった後、どうしてあの無謀な戦争に引きずり込まれてしまったのか、そのときの報道機関の腰の据わり方が足りなかったところに、歴史を誤らせてしまった原因があったのだ、と反省した言論人の気概はどこに捨ててしまったのだろうか。現状を見ていると、世の中全体が安全保障の状況が変わったという説に黙って従ったうえで、報道機関としての正しい姿勢を捨ててしまっているようにしか見えない。戦前の翼賛体制を作っていったときの報道機関と何ら違わない対応をしてしまっている。情けないばかりではなく、子孫に対し顔向けできないいい加減さである。
第一、選挙で自分たちの陣営が勝利したら、なんでも思い通りになると思い込んでしまっている政治家の間違いを、まず正さなければいけないのが報道機関の責任のはずだ。それを忘れてしまっているから、傲慢な政治家と、知識不足を恥じない大臣がいくらでも出てきてしまっているのだ。海外でも事情はあまり違わないと、慰めにもならない現状解析をしてみても始まらないだろう。「ペンは剣より強し」と堂々と政治家に論戦を挑む報道機関が出てきてほしい、というのが偽らざる願いなのだ。世の中全体が狂いすぎないうちに、正しいことを口にできる人が多くの報道機関で一斉に問題点を述べてほしいと強く願う。

「公」であること

2017 年 2 月 16 日

国会中継を聞いていてとても不愉快なことがあります。答弁する政府側のメンバーの中に、自分の立ち位置が理解できていないと思われる言葉を平然と吐く人がいるからです。全く責任感を感じさせない法務大臣は、その筆頭でもありますが、この人が日本国の方の番人である、などととても言えません。彼自身の至らなさもあるのですが、「テロ等防止法」が、オリンピックのために必要だ、などという理屈付けをしてしまった現政権全体の問題です。辻褄が合わないのです。合わないことを答弁しようとするから、言葉の端々に嘘が出てきてしまうのです。予算委員会で何時間討論したからもうおしまい、というアリバイ作りだけで済ませようとする政府側の驕りが見えてくるだけに、許せない気持ちが沸き上がります。防衛大臣の答弁もひどいものです。当初存在が失われているはずとしていたこ「日報」が出てきたら、今度は言葉の定義を自分勝手に使い分けようとしています。そのいかがわしさには、与党内部からももう守れない、との非難が出てくるほどです。第一、「日報」を廃棄したはずだ、という以前の言い訳自体が許せません。「公」の立場にいるものは、その足跡を社会に公開する義務があります。一時的に公開を憚られることがあっても、やがて社会にすべてを見せることで、その時に下した判断の正しさを問わなければいけないのです。証拠がないから問題視されない、と言わんばかりの「日報」の廃棄答弁は、そのことだけで社会を欺いているのです。そのうえ、明らかになった日報には、戦闘が行われているという現地の言葉が記載されているのですから、どんなな言い訳も無意味です。そのうえ、抗弁のために、憲法を持ち出す的外れでは、その適性を疑います。首相を筆頭に、議席数頼みの無責任さにはあきれてものも言えません。議員であること、その「公」の責任をもっと強く感じてほしいものです。今のままでは、単なる政治ゴロが国政を蹂躙しているだけになってしまいます。また、公開の原則をもっと正しく認識し、そのことで、歴史に耐える判断をしていく政治家に育つべきだと思います。

オリンピックを口実にするな

2017 年 2 月 13 日

筆者が若かった頃、東京でオリンピックが開催されることになって、道路の整備などが急速に進みました。それまでは移転など難しいとされていた場所でも、「東京オリンピックには必要な道路ですから」と強制されれば、ほとんどのひとはそれに従い、急速な変化がありました。今にして思うと、日本橋の上に高速道路を設けたなど、年の美観に配慮していなかった点は、拙速だったと指摘されても仕方ないことかもしれません。現在企画されている次のオリンピックに当たっては、このような過去の失敗を償うような提案と実行が期待されるのですが、どうもそのような正しい意気込みではなく、組織委員会の長に立つ人に献金疑惑が噂されています。というより、このような立場で参入する人は、自身が与えられる権限を、そのような不純な動機で執行しても当たり前との風潮が見られるのです。このような嘆かわしいことが起こるようでは、クーベルタンが理想として描いていたオリンピックなど実現できません。そのうえ、現在国会で議論されている「共謀罪」が、オリンピックを行う上で欠かせない、という政府側の無理やりの理屈付けがあります。この理屈付けが正しくないことは、これまでの国会審議の中からも見えてきたのですが、現在の報道機関の多くは、この事実を伝えようととえしていません。もっぱら、政府側のキャンペーンを平然と垂れ流しています。スポーツに強い関心を持ち、観察している筆者には、このような不純な動きがどうしても許せません。「オリンピックのためだから」という説得策をこれほどまでにいい加減に使われてしまっては、オリンピックこそ大迷惑です。最近は直接は表に出てきませんけれど、築地市場の移転も、オリンピックのための道路整備に必要なことだから、とある時期の都庁側の見解があったと言われています。本当に大事なスポーツイベントとしてのオリンピックではなく、私腹を肥やしたり、強引に法律を成立させたり、などの不純な行為を隠そうとして、「オリンピックのために」と言わせてしまうようなわが国の風潮をこの上なく嘆かわしく思っています。
このような背景の裏側に、ドーピングをしてまでも国威を発揚させようてする国が絶えないのだとも感じます。どうしてスポーツの良さを理解できないのか、人が人でしかないからなのでしょうか。情けなさを嘆くばかりです。

防衛大臣の認識不足

2017 年 2 月 11 日

現在の国会で、南スーダンで実際に起こっているのは、「戦闘」か「衝突」かなどと、とても小学生にも見せられないような論争が見られます。防衛大臣は、靖国参拝の時にも、「国家のため誠をささげた英霊を奉じて何が悪いのですか」と開き直っています。良く考えて見なければいけないのは、これまで戦争を起こそうとしたのは、一般市民ではなく、軍部だったという事実です。この軍部の人間も、亡くなってしまえば英霊だとして、靖国に祀っていることに問題があります。天皇陛下が靖国参拝をなさらなくなったのは、このようなごちゃまぜにした過去への対応を認めないからです。軍部がリードして起こしてしまう戦争は、現代においては、絶対悪であると評価されています。なぜなら、昔の武将が自身の命をかけて戦ったのと違い、現代では相手の一般市民を人質にして争う形になってきているからです。防衛大臣が、第二次世界大戦で不本意にも亡くなった市民を弔う行動をするなら、もう少し評価を上げてもいいのかもしれませんが、彼女は、靖国の英霊たちだけが国家に殉じたのだとしか思っていません。そこのところが、基本的な間違いです。ですから、現在国会で行われている「戦闘」問題への不適切な答弁も、普通の人が持つべき認識のどこかが狂っていることに起因しているのだと考えます。この間違いを正しく指摘しませんと、国会では蒟蒻問答だけが続き、国の明日のための議論になっていきません。
防衛大臣が陥っているような視野狭窄の信奉は、自民党内に溢れてしまっています。困ったことです。以前は、戦争の絶対悪を堂々と論じる議員が自民党内にも多数いたのに、いったいどうしてしまったのでしょうか。この変化は、世間が戦争の悲惨さを忘れてしまっているからと、たかを括っているからなのかもしれません。筆者は、このような傾向を強く危ぶんでいます。ですから、敢えて防衛大臣を一つのサンプルとして、思考形態のいびつさを指摘しているのです。また、再三指摘しているとおり、「積極的平和主義」とは、武力を増大させてその均衡を促すものではなく、人の心に戦いへの傾斜が生じて来ないよう、差別や格差を少しでも取り除いていくことです。この世界的な定義に平然と反して、堂々と口にしている首相にはただ呆れるよりほかありません。

天下り規制問題

2017 年 2 月 9 日

文部科学省の組織ぐるみの天下りが、国会でも取り上げられて連日報道されています。上級公務員の天下りのどこが問題なのでしょうか。適切な人事の交流は組織の活性化や運営の効率化にプラスにはならないのでしょうか。以前にも書いたように、筆者は税金で養っていただいたり、研究費を受けていた時代がありました。当時は、自分の与えられた研究課題に邁進し、結果を正しく世の中に報告することで、使命を果たせるものと信じていました。当時の思いは今でも正しかったと思っています。しかし、自分がそのような立場にいて、周辺を見ると、世の中からの負託に応えるつもりがまるでない人もいると、びっくりさせられたのも事実です。そして、公務員と言うものがいつの間にか組織の維持や、そこで働く人たちの管理をすることだけに傾斜してしまう事例ばかりを見て、早期に退職をしました。もちろん、組織の使命を感じて日々過ごしている公務員の方もいらっしゃいます。残念ながら、そのような使命感優先の生き方をしている人の方が少なかったと感じました。
ですから、天下りをしている人たちが主張する、「公務員は世間知らずだから就職先を斡旋しなければならなかった」という言い訳は、ある意味納得させられてしまいます。そのような人たちが、どこかへ天下りしても、世の中のために働かないであろうことは、この言い訳から理解できます。だから、別の見方をすれば、そのような人の生き方をさせてしまった公務員制度そのものに、もっと深い問題があるのではないかと思うのです。本来、自分の与えられた役割を正しく発揮したものであれば、退職後はそれらの知識を活かしてボランティア的に人生を過ごせば、豊かな人生になるはずだと思います。そのような生き方ができなくなってしまった人たちを大量に作り出しているのだとしたら、そのことが問題なのでしょう。現役時代に、胸を張って自分の使命を語れるようにしていくことこそ、公務員改革の柱であるべきだと信じています。
国会でのやり取りの情けなさを感じながら、この国の行く末を案じています。

混迷の中で

2017 年 2 月 6 日

予想を反してアメリカ大統領にトランプ氏が選出されて以来、世界全体の秩序とはいったい何だったのか、明日が予測できないような雰囲気が地球全体を覆っています。貿易はどのように行われれば公正で、どのようなことが起こってしまったとき不公正だと、一体誰が断言できるのでしょうか。アメリカが利益を損なうから不公正だと言い募るこの大統領は、車の貿易を不公正だと言い張り、穀物の貿易では、アメリカが利益を上げているから、公正なのだと断定しそうです。このような考え方で、一つ一つのことを検討していると、きっと全体に対しては、「自由なところと不自由なところを混在させてアメリカの利益最大化こそ公正だ」と言って恥じないのでしょう。しかし、そのような主張は、世界全体の持続性をきっと損なってしまうでしょうし、主張している側でも、自己矛盾に気づくことでしょう。だからと言って、振り上げた拳を簡単には降ろせなくなって、二国間交渉などといいながら、武力を背景に相手に認めさせようと企むことになるのではないでしょうか。そうなってしまえば、世界全体の秩序などどこかに置いていかれてしまうでしょう。自分の国のためになると主張したことが、結局は自分の国のためにもならないと知った時には、既に遅かったと気づくのかもしれません。世界の中に、大国と呼ばれる国があって、それらの数少ない国がわがままを言えば、どのような帰結になるのか歴史を見れば判ることです。その過去を見られないほどアメリカ国内の軋みが大きかったのは事実でしょう。雇用の確保が不十分だと気づいて、不法難民の排除を言い張るのは一見正しいことです。ところが、そのような難民や移民の持っている活力を排除した後、アメリカは穏やかな国内の生産活動が展開できるでしょうか。筆者はトランプ氏が思い描いているような結果は、一つとして得られないと思っています。移民や難民を受け入れてきて、彼らの向上心がアメリカの推進力を支えてきたのです。今そのようなパワーを切り捨てようとしています。自分が載っていた枝を切ってしまった愚か者の話が思い浮かびます。
さて、今週の末には日米首脳会談が開かれます。何かと要求の多いアメリカです。駐留米軍に対して「思いやり予算」で過大な負担をしていることは、アメリカでさえ認めている模範的なことでしょう。もう、わが国の予算からはこれ以上の支出はできないと、率直に述べなければいけません。武力の均衡だけで抑止力が保たれる、という幻想に陥らない将来像を語る必要があります。残念ながらわが国の首相はそのような格調高い発想を持てないようなので心配です。いずれにしても、現状は混迷の中です。あわてて、不幸せな世界の歴史を作り出すことのないような、とそれだけは釘を刺しておかなければなりません。

何が起こるか

2017 年 2 月 3 日

アメリカの大統領が変わって以来、今までの常識を覆すような大統領令が出されたり、相変わらずのツイッターでの一方的な主張など、世界全体の落ち着きを失わせる動きが強くなってきています。もっぱらアメリカ追随的な現政権は、これからの行き先を見定められないまま、「コメントを控えます」という対応に終始しています。来週は、アメリカ大統領と日本の首相との首脳会談が設けられます。果たして、わが国の将来にプラスとなる会談とできるのでしょうか。少なくとも、国会中継における首相答弁を聞いている範囲では、やや疑問を感じてしまいます。一番は、アメリカの大統領が、「聞く耳」を持たない生活をしているからです。自分の主張は一方的に行い、相手の言葉を聞こうとしていません。ですから、説得材料を持って行ったとしても、会談は両者の対等の形ではなく、アメリカ大統領の独演会にしかならないのではないかと疑うからです。トヨタの社長が、アメリカに工場を設置して、アメリカ国内の雇用を増やしてきたプロセスの努力を、トランプ氏はどれだけ認識できているのでしょうか。日本が、アメリカの駐留軍に対し、「思いやり予算」でどれだけ支出を増やしてきたのか、説明しても判らないかもしれません。と言うより、トランプ氏は、日本の為なのだから、100%負担すべきだと言い張るかもしれません。そうなったとき、わが国の首相は、どれだけ頑張れるでしょうか。いつの間にか、相手の言いなりになって帰ってくるようなことにはなりはしないかと心配しています。
本欄では以前から言い続けてきましたが、難民を発生させている元凶の行動に、アメリカは加担してきました、と言うよりアメリカが元凶そのものでした。ですから、難民がまるで自然現象であるかのようにとらえて、その存在を嫌悪する資格など、もともとアメリカにはないのです。それよりは、難民たちが、格差と差別に曝されない心くばりこそ大切なはずです。難民だからと、格差と差別の中に置いてしまえば、そのことがテロ集団を醸成しているようなことなのですから。
世界全体が、平和で安定した明日を求めていく動きを、日米首脳会談から導いてほしいものと思っていますが、当該の会談者にそれだけの自覚があるものか、心配しています。

少し心配な地震

2017 年 1 月 31 日

3日前のことです。秋田県南部の深い場所を震源とするマグニチュード5の地震がありました。震度3の揺れを観測した場所は、秋田県よりも岩手県や青森県の方でした。この地震は特に注目されるものではないのですが、6年前の東北大震災の後、奥羽山脈西麓を震源とする地震があるだろうと予想されているだけに、少し気になります。東北地域の太平洋岸が相当太平洋側に引っ張られた歪を起こしたのですから、東北の背骨とも言える奥羽山脈沿いにも歪の残りは大きいはずです。その残りのひずみがもたらす地震がやがて起きると言われているのです。もちろん、それが人に災害をもたらす形となるか、もっと穏やかな終息となるかは、簡単には推測できるものではありません。しかし、地震学の立場から見れば、あれほどの大地震でしたから、まだまだ余震と推定される地震が、人への災いとして起きてしまうことがあるはずなのです。起こってしまってから、あれは余震でした、と告げられるより、この地帯で起きる必然があるのだと理解している方が心構えを正しくできることでしょう。そのような関心を持って地震情報を見ていると、3日前の情報は少し気になるものでした。もちろん、相当震源が深かったことを思えば、簡単に余震と結びつくようなものでないことは理解されますが、まだまだ東北の地震の問題は収束しきっていないことだけは、肝に銘じておくべきでしょう。
熊本県の余震もいまだ続いています。大分側へ震源が移動していくかのような経過も見せましたけれど、どうやらその傾向は収まったのでしょうか。考えてみれば、わが国は地震列島ですから、いつ強い地震がどこで起きても不思議ではありません。昨年の熊本地震も、テレビの中継が突然変えられてびっくりしました。その中継で、熊本城を映している映像に、埃が落下しているように見えたことで、被害の大きさが推測されました。あのようなことが起こってほしくはないのですが、願ったからと回避できない宿命です。そのとき、どれだけ人への災害を回避できるか、事前の正しい予測と、適切な対応に結びつく知識が求められています。
奥羽山脈西麓の地震が、人に災害をもたらすことなく、時代が過ぎてくれればうれしいですが。