笑い話ではないはずですが

2015 年 1 月 25 日

現政権に近い人たちは、道徳教育をもっと積極的に取り入れて、日本の「国」の支えをしっかりさせたいと考えているようです。一方で、現政権が世界との交易を深めるためと称して、首相の海外訪問に随行している経済人がたくさんいます。一見関係のなさそうな二つの話ですが、筆者には笑い話を作っているように見えてなりません。それは、現在経済界を牛耳っていると言われる人たちからは、高い見識が伝わってこないからです。経済成長のためなら、武器輸出の自由度を高めてほしい、とか、原子力発電所の輸出にも(福島第一原子力発電所の始末ができていない時期に)力を注いでほしい、と平然と振る舞っている姿には、道徳観が全く認められないのです。
かつて、渋沢栄一翁は、「経済は最大の道徳でなければならない」との信条を掲げて、わが国の近代国家創出に業績を残されました。この言葉の重みは、現在でも全く変わっていませんし、より重くなっているとも考えられます。ところが、現在の経済界のリーダー(本当にその能力があるのか疑っています)と呼ばれる人たちは、なりふり構わず短期的な経済成長を追い求めているようにしか見えません。労働分配率を削ってまで、内部留保を高めることにしてしまえば、国内消費の伸びが鈍ってくるのは当然の帰結です。それを、政府の国債発行で補わせようとしても、国の将来が見えてくるわけはありません。
その程度の判断力や決断しか持ち合わせていない人たちの姿を見たら、渋沢翁はどれだけ嘆くことでしょうか。
このような、絶対的な矛盾を抱え込んだまま、次世代に道徳教育を強制しようとする人たちの、浅はかさが見え透いて、笑い話にもなりません。万一、この笑い話の内容が実行されていくとしてら、それは国の自己崩壊を招く引き金にしかならないでしょう。

堆肥化研究の一コマ(2)

2015 年 1 月 24 日

家畜糞、稲わらの堆肥化について研究を始めたころのことでした。こどもの日だったでしょうか、テレビの番組で子供たちの悩みを聞いて、大人たちが答える番組でした。小学校高学年の女の子が次ぎのような考えを披露し、解決策を求めました。「家の手伝いで畜舎のぼろだし(糞尿を畜舎から運び出す作業)をしているとき、友達に見られると恥ずかしいのですが、どうすれば良いのでしょうか」という話でした。回答者の有識者たちは、「家の手伝いをすることは立派なことですから」とか「それは大変ですね」などと答えて、本当に解決できる答えを見つけることはできませんでした。たまたま、その悩みにも答えるような研究に着手していましたから、実験をするときには、土曜日も、日曜日も(当時は土曜日は出勤日で半日でしたが)堆肥の切返し作業を続けました。そのようにすることで、彼女に対し、責任を少しでも果たせるのではないかと思ったからでした。
当時は、堆肥化についての文献も僅かでしたが、その中に、いかにも執筆者の都合で管理が短すぎるものだったり、休みが多すぎたりしているものが散見されました。堆肥化を担う微生物の活動を正しく評価するには、研究者の都合が反映されてしまっているようなデータからは、何も言えないだろうと疑いました。せめて、そのようないい加減さを克服していくことで、彼女の悩みに答え得る結果を求めたのでした。このような気負いをもって向かったせいでしょうか、数年を経て、堆肥化のための機械施設利用の要点を整理することができました。残念ながら、この意気込みと結果に関して、正しく理解してくれる人はわずかでした。
ですから、今でも続けていますが、研究成果としてまとめた実績を、社会に科学として伝えることの大切さを痛感しています。当時に比べ、循環型社会構築の必要性が謳われながら、うまくシステムが出来上がっていない例に接するたびに、あのころの自身の青臭い気負いを懐かしんでいるのです。

金融緩和

2015 年 1 月 23 日

デフレを恐れてさまざまな策が行われています。その論の基本は、「経済成長」がなければ社会はうまく回らない、とするものです。しかし、もっと長いスパンで私たち人間の営みを評価した場合、この思いつめたような経済成長至上主義が、果たして正しい唯一のものなのでしょうか。とくに、日銀が物価のお目付け役の役割を投げ捨ててでもデフレ脱却に手を貸すようなことは、将来に禍根を残すことにならないでしょうか。経済は専門分野ではありませんが、最近の世界の動きを見ていると、絶対視できないはずの仮説を信奉して、世界全体が泥沼に落ち込んでいくような気がしてなりません。もちろんそのような思いが杞憂であるならそれに越したことはありませんが、世界を牛耳っている人たちが間違った指針を信奉しているとしたら、やがて起こってしまう「破局」を迎えてしまう前に、人類が気付くべきなのではないかと感じるのです。
そのためにも、国会で次のようなことに対し論戦があるべきだと思っています。ひとつは、国債を発行してまでも経済成長を遂げたと総括した近年のわが国の運営は正しかったものなのだろうか。将来世代の富を、このような使い方をして許されることなのだろうか。そして、過剰に発行された国債がわが国の将来を縛ってしまうことに関し、現在を生きている私たちは本当に責任を持つつもりでいるのか。ということです。これらのことを真剣に考えないで、統計的な数値ばかりを追うべきではないはずです。わが国には、優秀な官僚がたくさんいるはずです。そのひとたちが、ここに掲げた設問に対し、正しい答えを導いてほしいと、強く思います。このまま、深くものを考えずに流されるよりは、反省をしたうえでの政策を待ちたいと思います。
判りやすく言えば、現在の多くの政策は、近い将来の通貨不安を招き、国家としての信用を失わせるものでしかないと、疑っているからです。
蛇足ですが、以前から主張しているように、地球が蓄えてくれた資源を、より早く使い切ることだけに「成長」を求めること自体に、自然界に対する冒涜があると知らなければいけないのです。

人質事件

2015 年 1 月 21 日

イスラム国が、日本人二人を拘束し、身代金を求める事件が発生しました。安倍首相の中東歴訪をターゲットとしていたようです。日本は、人道援助支援を表明しているのだから、イスラム国にも身代金を支払える可能性があるはずだ、という身勝手で卑劣な要求です。交渉することも、相手を制圧することも、今回の事件では簡単ではありません。同胞がまざまざと殺されるのを見るのはいたたまれないことです。
テロ集団に対する制圧法は様々ではありますが、この分野の先進国であるアメリカもイギリスも効果的な手を打てなかった過去があります。報道に触れるたびに、もどかしさばかりが募ります。
過激なテロ集団が一定以上の規模になってしまったのは、このような勢力を一時的にせよ、利用したり生んでしまったりさせてしまった先進諸国の過去に原因がある場合もあります。一時的に、先進国と呼ばれる国々が、その地域の勢力を利用すると、考えも及ばなかった事態に至ることがあるのです。アフリカの各地で部族間の争いが活発になってしまうのは、武器輸出をして対立を煽り、その隙に資源を獲得しようとした先進国の腹黒い動きがあったためでもあります。このような風潮が、ソマリアを海賊国家にさせてしまった一面です。
ですから、過去をさかのぼれば、先進国と呼ばれる国々も、反省すべきことがあります。ヨーロッパでは、テロ集団と宗教とを安直に結びつけないようにと警告されています。原理主義だとか、過激集団だとか、呼ばれる勢力をこれ以上活発にさせないために何が必要なのか、自分たちのこととして考えるべきでしょう。

子どもたちの輝きを

2015 年 1 月 19 日

少子化対策などと称して、子供たちの数を増やそうとする動きには、どこか嘘くささを感じます。なぜかと言えば、喜んで後を継ぎたくなるような世の中でなくなるようにしている為政者が、同じ口から少子化が問題点だというのですから。本欄では、再三指摘したように、麻生元首相は次のように述べていました。「私の地元の企業が、正社員採用を増やしたら、結婚する人も子どもを作る人も一挙に増加しましたよ」。ですから、少子化対策に最も効果を発揮するのは、非正規雇用を増やそうとするのではなく、反対に正社員雇用を増やす努力なのです。その真反対の政策を政権が掲げたまま、子供だけを増やそうとする弥縫策が役に立つわけはありません。そのうえ、のちの世代に支払えないほどの借金を平然と重ねていて、どの口で少子化が問題だなどと言えるのでしょうか。その結果の一つとして、議会で行われる討論が具体策を欠いたまま、野次だけがクローズアップされることになるのです。
もっと自然に、母親になりたい、子供を産みたい、との思いが出産適齢期の若い女性たちに湧いてくることが大切なのです。この思いが根底にあることで、育つ子供も輝きを増すはずです。育つうえでの障害を克服する力も社会全体の中から生まれてくることでしょう。第一は、その最初の自然な心の動きであり、開けとめる社会の許容度なのです。そこのところを阻害させてしまって、部分的な子供のための施策を挙げてみても、実効性は乏しいものです。
女性であればいつでも母親になれる、という間違った思いが若い人を支配しているように見えてなりません。生物学的に言えば、出産適齢期がある程度あることは明らかです。そのタイミングで子供を産める環境を作っていくことこそ、少子化対策の入り口です。決して無理やり押し付けることではなく、自然に向かえる状態を考えていくことが、政治家たちの役割のはずです。
先日見ていた番組の中で、「自由な働き方を求めている若い人も多いのだから、正規社員の雇用を増やせ、という主張には賛同できない」という評論家がいました。この評論家の言っていることの前半は正しいことです。しかし、非正規雇用が4割近くになっている実態に対しては、全く説得力を持ちません。結婚できない、まして、子供も作れない、という悲痛な(もうそんな形容もできないような)訴えを聞いてしまった筆者には、テレビの中の評論家を情けないだけの存在に思ったものでした。

阪神淡路大震災から20年

2015 年 1 月 17 日

直下型地震であったため、地震の規模に比べ、被災者、死者の数が大きかった特徴を持つ阪神淡路大震災から20年が経過しました。自然災害がこれほど生活に影響するものだと、一般的な知識では持っていましたが、改めて知らされた出来事だったのです。
この復興に当たって、ボランティア活動が大きな役割を果たしました。さまざまな市民が被災者の力になって、復興を担ったのでした。人の心の暖かさを感じさせるエピソードがたくさん伝えられました。伝えられることなどは全く目指さない心の暖かさがあったから、復興がまともに進んだ、とも言えたのです。そのことを思うと、東北大震災に対する現政権が示す心の暖かさのなさは腹立たしいばかりです。
このボランティア活動の成果を受けて、特定非営利活動法人が社会に認められることとなりました。設立されたNPOは、それぞれに役割を果たし続けていると思われます。もちろん、途中で挫折してしまうNPOも少なくはないはずです。一方で気になることは、社会の中で良識に基づく行動をNPOに任せてしまって、企業と呼ばれる集団に属する人たちが社会的役割を放棄しているように見える部分があることです。企業が、そこで働く人たちをコストとしてしか見ていないのではないか、と疑われる状況が見られます。経済団体のメンバーの発言に、社会的な役割を担っていこうという意欲が見られないものが散見されます。儲かるとなれば、兵器を海外に売ることが当然だとするのでは、見識を疑います。
自然災害はこれからも私たちを襲うことでしょう。それから復元できる力は、人々全体の心の中に連帯感があってこそです。社会的な存在の一部が、その役割を放棄することは許されるものではありません。

堆肥化研究の一コマ

2015 年 1 月 16 日

陽射しが春めいてきました。春になると作付前の畑に堆肥を入れます。
環境保全型農業にとって、大切な堆肥を上手に作るための研究を手掛けたのは、もう40年近く昔のことです。畜産事業者から出てきてしまう糞尿を、適切に堆肥にすることで、畜産事業者の糞尿処理の解決と、「地力」が衰えてきていると指摘されてきた畑の生産力を安定させようと始めた研究でした。幸い、堆肥化を進めるための要点とは何か、こうすれば糞尿が堆肥になっていくプロセスができる、と研究が進みました。さらに、それを一定の規模で機械化させる、切返しと通気を組み合わせた装置の有効性も確認できました。
そこで、このような方法で作られた堆肥を適切に畑に入れるための研究を、栽培関係者と一緒に行う委託試験を始めることになりました。研究の組み立てを考えることは難しいことではありませんでしたが、属している機関の特徴として、実際の作業を誰かにお願いするということはあり得ませんでした。研究を行うものが、自分の肉体を使って堆肥を製造して、それを栽培関係者に渡すことが求められたのでした。若かったこともあり、作業することにしんどさを感じることはなく、かえって、この作業をしたことが堆肥製造の機械化を自分のこととして、深く考えることに結びつきました。畑に入れる堆肥ですから、トンで扱うくらいの堆肥を作らなければなりません。近くにある酪農家から、毎日600kg程度の牛の糞を運びました。これを、おがくず、稲わら、麦わら、などの副資材と混合して処理をしたのでした。少なくとも、三日間同じ作業をしないと、求めるだけの堆肥が出来上がりません。糞を運び、計量して混合し、発酵槽へ投入するとほぼ一日が終わってしまいました。牛小舎に行って糞の量が少ない時には、出してくれるのをじっと待つようなこともありました。
副資材である麦わらを集めるときには、ちょうど梅雨時で雨に打たれて泥がついてしまったわらを運ぶと、どろどろになりました。そして、混合するときには、この泥が埃になって襲うのです。今でも悩まされている花粉症は、この経験で余計にひどくなったと感じました。
この栽培試験用の堆肥を大量に製造したことで、次のようなことも明らかにできました。それは、発酵槽から出した後でも材料の分解が進んでいく「後熟」の期間があります。その期間の意義や、必要な最低限の管理の在り方でした。また、限界に近い条件で堆肥化をスタートさせたときに、適正な後熟に持ち込むためには、相当気を使わなければいけないことも判りました。さらに、わら類と混ぜたときは、堆肥の総量が確保できないほど減ってしまうことなども知りました。
あるとき、稲わらと牛糞とを混合処理して三日目、委託試験をお願いする試験場の場長ほかの皆さんに視察していただきました。土壌関係の研究者であった次長さんが発酵槽の中で活発に分解している「堆肥原料」を手に取って、これは良い堆肥になる、と太鼓判を押してくれましたが、「それはおとといまでは牛糞だったのですよ」という説明は、さすがに省きました。
研究は順調に行うことができ、報告書などもたくさん書きましたが、ここで出来上がったはずの技術が、現在なお十分に社会には浸透できていないと思わされることも多く、機会を見つけては、普及の努力を重ねたいと思っています。

新年度予算

2015 年 1 月 15 日

平成27年度の政府予算案が閣議で決定されました。身の丈に合わない予算を組み始めて久しくなります。このようなことが永続できるわけでないことは、経済学の素人でも判ることです。それなのに、毎年このありさまを続けてきて、財政健全化への方向性が見えたと、政権側は発表していますが、それはむなしいばかりの話です。虚しさには大きく二つの問題点があるからです。ひとつは、国債発行がこれまで通りの国債管理費の計上で実行できるだろうと見込んでいるところに大きな間違いがあることです。政府が物価上昇率を目安として組み込んでいますが、国債の利率は、この値を大きく下回っています。国債の引き受け手がいなくなることを前提にしているかのような予算でしかありません。日銀の総裁がお友達であったとしても、このような国債発行の暴挙が長続きするわけがありません。歳出に占める国債管理費がこれだけ大きければ、このあたりの目論見が少し外れてしまうだけで、実行をコントロールできなくなることでしょう。もうひとつは、歳出の中で社会保障費が大きな割合を占めています。国民のためには減らすに減らせないという理由ではあっても、これも長続きしないであろうことは明白です。こうなれば、制度設計を改めるよりほかないはずですが、国民に負担を強いる政策を国会で議論できることもままならないまま、だらだらと終焉を待ち構えているだけのようです。
本欄では以前から何回も指摘してきました。国民負担率と、バランスできる国民への保障とを、しっかり議論できる国会でなければいけないのに、個別の数値だけを持ち出しての議論ばかりです。これでは、国民は朝三暮四でごまかされる猿たちと変わりがありません。政党は、そこのところをもっとオープンにし、討論素材として提供する義務があるはずです。
前回の本欄で、サッカーの日本代表の監督をザッケローニと前の人の名にしてしまいました。正しくは、アギーレです。これを間違えられる程度に、現在のチームは、選手そのものの存在感があるのだと感じています。

時差ぼけはありませんが

2015 年 1 月 13 日

サッカーの2015アジアカップがオーストラリアで始まりました。初戦はパレスチナ相手で、戦力がどれだけ整っているかが試される試合でした。開始早々、遠藤選手のゴールで、わが国のペースとなって試合は進みました。ザッケローニ監督になって最初のころ、遠藤選手が招集されない試合がありましたが、なんといっても、その存在感を強くアピールするプレイでした。そのことは、遠藤選手の偉大さを示すものではありますが、とってかわる選手が出てきてほしい、との期待には応えられないものでした。相手に攻め込まれて、決定的となるようなシーンはほとんど見られず、ついてこられなくなってイエローカードを受ける相手の選手ばかりが目立ちました。
後半に入って、選手交代を積極的に始めたのは、いろいろ試したかったのだろうと推測できます。残念ながら、その起用に応えられるプレーは少なく、チームとしてのバランスの崩れが見られたりました。アジアカップはまだこれからですから、決勝戦に向けてチームのまとまりなどがもっと出てきてほしいと感じました。勝てて当たり前だというファン心理ですが、結構贅沢なものですね。アジアの中でトップになったとしても、世界レベルからは遠く置き去りにされていると、前回のワールドカップで思い知らされましたから、世界に通用するプレーで、勝ち進んでほしいと期待しています。
「スポーツ庁」が設けられるというニュースも伝えられました。系統立てて、選手の育成が進むことは望ましいことです。気を付けなければいけないことは、役所が出てくると、選手の自立性が弱くなってしまう恐れです。どのスポーツでも、選手本人から湧いてくる、内発的な意欲こそが、最も尊重されなければなりません。結果において、国を挙げて応援することは望ましくても、間違っても「国威高揚」などが掲げられてはならないことです。スポーツ庁の運営に期待しつつ、偏った動きにはならないよう監視することも大切です。

食べ物への異物混入

2015 年 1 月 11 日

大手のファーストフード会社の食べ物に異物が混入していたというニュースが先週大きく取り上げられました。食べ物ですから、異物が混入しないに越したことはありません。しかしながら、混入できる遺物に取り囲まれて生活しているのだと知ることも大切です。ですから、食べ物である以上絶対に入ってはいけない、毒物などは厳しく監視されるべきだと、筆者も考えます。一方で、この時とばかりに会社をたたこうとするマスコミの姿勢には共感できない部分があります。筆者の幼少時代は、ご飯を食べていて口の中でジャリッと音がすることがありました。小さな石が異物として混入していることが、珍しくなかったからです。そのことを世間が仰々しく取り上げることすらありませんでした。
会社側の発表に関し、強い不信感を抱かせる内容がありました。混入物に人の歯と思われるものが入っていたことに対し、会見した会社側のメンバーが、次のようなことを平然と話したことです。「この歯は、お客様のものが紛れた可能性もあり得ると考えている」との発言でした。もし、そのようなことが疑われるのであれば、直接発見経過などをもっともっと詳しく調査すべきことです。ところが、このお客様には、葉を治療した形跡など全くないはずのことだったのです。そして、個別の店舗としては、その内容をお客様と共有していたのです。それをまるでひっくり返すようなことを記者会見で述べたことに、違和感というより、不快感を強く覚えました。
この会社の主張は、訴訟社会になってしまっているアメリカであれば当然のことなのかもしれません。いったん責任を認めてしまうと、とことん追求されてしまうのですから。しかし、わが国において、個別の店舗が認めている認識と異なる発表をしてしまう会社側の幹部の発言は、それだけで許せるものではありません。
食べ物を扱う会社として、この程度の人間を幹部として社会にさらすことの問題点をこそ、もっと強く恥じるべきなのです。マスコミも囃し立てるだけではなく、解決策に導ける提案などを積極的に取り上げるべきではないでしょうか。