柔道連盟の理事

2013 年 5 月 24 日

全柔連の理事が、セクハラを行ったと報道され、当該の理事がこれを認めて辞任したと続報されました。行為の当否だけでなく、この理事の年齢を見て、競技団体としての見識を疑いました。名誉職的なところがあるだけに、スポーツ団体の役員は、気をつけないと高齢化が当然のように進んでしまいます。懇親会に出席していた女性柔道家とホステスとの区別がつかなくなるような人を、理事にしておくことが犯罪的です。
人事の刷新を、もっと高い見地から行わないと、柔道界のこれからが心配です。スポーツの本質は、「気晴らし」です。当然のことですが、そこには、相手や審判などへのレスペクトが重要な意味を持ちます。スポーツの場を提供してくれるすべての環境に対し、敬意を持たなければなりません。わが国の一部の団体が「勝利至上主義」に傾いた結果として、高校の指導者の体罰が騒がれたのは、つい先日のことです。この問題に対しても、まだまだ望ましい結果まで到達しているとは考えられません。
国民全体が、スポーツをもう少しゆとりを持って捉えることが大切なのではないでしょうか。

物価と長期金利

2013 年 5 月 23 日

デフレ脱却の掛け声で、物価の上昇目標を掲げ、それに応えるように市場が反応してきて、景気が上向くとマスコミは報じていました。しかし、当然のことですが、物価だけ上がって金利は上がらない、という上手い話はありません。長期金利も上がり始めて、このままでは日銀も含めた思惑通りにはならないだろうとの予測が出始めました。
本欄では、このような経済の原則は当たり前だと、以前から指摘していましたから、このような実態が生じたとしても、そもそもの狙い自体が持つ矛盾でしかないと感じています。
おそらくは、この先、通貨不安をもたらすような「どさくさ」が遠くない未来に起こることでしょう。その「どさくさ」を利用して、国が抱える国債などを踏み倒す力が働くと考えられます。その事実を見たくない国民が、瞬間的な景気回復をはしゃいでみても、長年にわたって溜めてしまった国の借金の重圧は、国民生活そのものを押しつぶすことでしょう。

凶暴な日傘

2013 年 5 月 22 日

昼休みの時間帯を少し過ぎた、溜池山王駅近くの歩道を歩いていたときのことでした。紫外線情報で警戒すべきと言われる程度には、日差しが強い感じでしたが、日傘をさす人はほとんど見当たりません。先方から、黒く大きな日傘をさした人がやってくるのが見えました。ずいぶん気取った日傘、というか、日傘だけでなく、これをさしている人も気取ったように見えます。この地域には、こういう人もいるものかと、感心してすれ違うそのときでした。
傘を持っている人が、瞬間的に少し下げたのでしょうか、頭に痛みが走りました。おもわず「痛い」と叫びましたが、傘を持つ女性は振り返りもせず、もちろん申し訳なさそうな素振りをすることもなく、後方に離れて行ってしまいました。頭皮を守るはずの毛髪が薄くなっていることも、痛みを強く感じさせたのでしょうが、少なくとも、あの女は意図的に傘を下げて加害したのだと思っています。もう少し若く、血気盛んであったなら、追いかけて文句を言わずにはいなかったでしょうが、このような凶暴な日傘を操る不愉快な若い女性がいたことだけは、読者に伝えておきたいのです。

昔なじみ

2013 年 5 月 20 日

大学のクラブ、高校のクラス、小学校のクラスなどの昔なじみと会う機会が、先週から何回かありました。来月も、高校、中学の同期会が開かれます。昔なじみと会えば、堅苦しい挨拶などなしに、楽しい会話が持てます。今日の午後、そのような昔なじみの一人と会う予定です。
中学時代の雑誌に、彼が「○○君を殴って先生にしかられたこと」という作文が載っています。それを読むと、あの時代のおおらかな雰囲気がよみがえって来ます。現在の中学では、このような作文を書くことや、まして、学校名で発行する雑誌に掲載されることが、難しくなっているのではないかと思っています。人はいじめをしてしまう。そのことを深刻化させないで、オープンにしていくことで解決しようとしていた、昔の良さがどうして保障されていたのか考えて見ます。
一番は、「偏差値」と呼ばれる怪物が義務教育をゆがめてはいなかったからだと思っています。義務教育が、いつの頃からか、「偏差値」による序列化が目的であるかのようになってしまっています。でも、「義務」教育なのですから、もっと大切なことは誰もが到達すべきことは何なのかを知ることだと思います。それは、筆者の言葉で言えば、「同じ時代を共に生きること(生きなければならないこと)を共有できる知恵を身につける」ことだと思っています。そう考えれば、現在の内閣で検討している教育再生の方向性の誤りなどが、直ぐにわかりますし、是正の方向も見えてきます。
初心に還るには、昔なじみとの再会は、貴重な意味があります。

本当の「維新」のために

2013 年 5 月 18 日

維新の会が、存在を証明しようとして、注目されやすい話題を取り上げることは、同情的に見ています。しかし、代表にある人間が個人的な見解である、といくら言い訳しても、世間がそのように取らないことは事実でしょう。その入り口の稚拙さが出てしまえば、掲げている「維新」の看板が泣くことになります。また、意味不明とも思われる発言をしてしまう議員がいることは、ただ情けないだけです。
本欄で、再三指摘したように、今「維新」として最も高く掲げるべきことは、歳入の範囲内に歳出を抑えることを、政党間の論戦にさせることです。あれも欲しい、これも欲しい、あれもあった方が良い、これも必要かもしれない、と個々の支出先を法律的に裏付けても、その支払い総計が、税として入ってくるものをはるかに越えてしまうようでは、国家の存続は及びもつきません。入る額に応じた支出をどのようにするのか、その優先順位を国民に問うことこそ、選挙の基本である、という原点を示すことが「維新」を名乗る政党に求められます。
国民の負担額と、制度として国が保障することのバランスを、国民こぞって考える機会が選挙であるはずです。そこを正しく訴えることでしか、国民の感じている閉塞感は打破できません。瞬間的な株価の上昇を囃していることは、国家のこれからの運営にはほとんど役に立たないことです。
「維新」を謳う人たちの正しい訴えと、それを正しく取り上げるマスコミを期待しています。

原子力規制委員会

2013 年 5 月 16 日

このところ、敦賀原発の立地の問題と、「もんじゅ」の運転再開問題で、規制委員会の見解が示される機会が二つありました。ここで示された見解は、当該の事業者にとっては、その事業の継続を制する話になりますから、反論したくなることはわかります。しかし、反論の内容を聞くと、「仮説はほかにもあるのだから、規制委員会の結果を受け入れたくない」という主張に聞こえます。
このような展開は予測されていたとはいえ、あらためて原子力村の過去の慣れあいのさまを思わされます。そのような体質があったから「人災」である福島第一原子力発電所の過酷事故を引き起こしてしまったのだ、という反省が事業者側から感じられないことは、不満でもありますし、不愉快なことです。自分たちが置かれている状況を理解できないままの反論だからです。
筆者は、長期的な大地の大きな変動を考えれば、活断層の直上であるかどうかの判定などは、決定的とは思っていません。すべての原子力発電所は、活断層の直上であっても、災害をもたらすことのないように、設計管理されるべきだと考えています。もし、それが不可能だというのであれば、過酷事故の重大性をあわせて考えて、導入しない方針を出すべきです。

金利の上昇

2013 年 5 月 15 日

日銀の思惑とは異なって、長期金利が上昇を始めていると報じられています。当然のことなのですが、金融緩和策を講じているのだから、このようなことは起こらないはずだ、という予測の方が間違いです。長期金利の上昇は、来年度予算の編成に当たって、国債管理費の増大を招きますから、景気回復を謳ってみても、吸収できる範囲を超えてしまうことでしょう。そのことを表面に出さずに、官僚の知恵で一時しのぎをすることでしょうが、経済の実勢は、一時しのぎなど超えてしまうことでしょう。
本欄では、デフレ脱却すなわち物価上昇率の目標設定と、国債管理費の増大とは並行してしまうから、なされている経済政策は決定的な矛盾をはらんでいると、以前から指摘していました。当然起こるこのような事象に目をつぶって、はしゃいでいることの方が不思議です。緩やかな範囲のインフレは、好景気に見えてしまう、と言うことくらいは、経済学部の学生なら皆知っています。しかし、それは決して長続きはしない、どこかに破綻が待ち構えている、ということも誰もが知っています。
本当の経済政策をどのようになすべきなのか、将来の評価に耐える提案がなされなければなりません。

違和感だらけの演説

2013 年 5 月 13 日

筆者の住む市は、目下市長選が行われています。たまたま、駅に出たところ、市長候補の応援演説に代議士がやってきていました。その話しぶりには、とても違和感を覚えました。なぜか絶叫型で話しているのですが、論旨ができていないのです。言いたい内容は、その代議士の所属する政党こそが、日本を復活させるものだ、と言うのですが、誰が考えても現在の国債漬けの国にしてしまったのは、その政党の責任のはずであるのにです。
ところが、現在の内閣支持率が高いから(それがどれだけ本物かはしりませんが)か、傲慢にもこのような論を展開しているのです。株価が上がったから、とか、円安に導けたから、それだけで天下を取っているような話しぶりには、危うさも感じました。いつの間にか、憲法第96条を改正するという姑息な議論にまで摩り替えてしまっているこの国の将来をとても心配しています。
戦後70年の総括談話には、「侵略」の言葉をはずすのだという、政調会長の言葉にも驕りの響きが感じられます。もっと謙虚に、そして、本当の明日への責任を述べられる政治家であって欲しいものです。

年金基金の消失

2013 年 5 月 12 日

筆者が所属している年金基金が、計画通りの運用益が上げられず、年金支給額の減額説明会が開かれたことを以前報告しました。そのあと、減額賛成の現役組合員の賛成が得られなかったことから、存続されないことになり、近いうちに解消の策が伝えられることでしょう。このような、国民の多くの人たちの蓄えを、「運用」という名前で、ゼロサム社会に引き込み、溶かしてしまう動きを政府そのものが演じていたことを誰も追及しようとしてはいません。
このような嘆かわしい動きを表すために、「俵はごろごろ」という歌を題材にして、お米がお倉に一杯溜まれば、溜めた人が消費する前にねずみに食われてしまう話として、説明したことがあります。現在のわが国の経済事情は、どこに行き着くのでしょうか。株が高くなっていると、国債残高の圧力を忘れてしまうような、いい加減な論調が幅を利かせています。それほど遠くない将来に出現する恐れのある通貨危機を、正面から取り組まなければならない、とする政治家は一人としていないようです。
この無責任さは、マスコミそのものも加担していたのだと、将来の歴史家に指摘されても誰も反論はできないでしょう。

月替わり

2013 年 5 月 9 日

4月が全般に低温で推移したためでしょうか、花粉症の季節が終わったとの実感がないまま、5月に入りました。ある放送局は、5月にはいるや、「花粉情報」の時間帯を「紫外線情報」に入れ替えました。それは、予定通りのことなのでしょうが、視聴者のことを本当に思いやっての番組変更には思えません。もっと柔軟な対応の仕方があるような気がしますが。
似たような感じを持つ報道があります。テレビで市況を報道することまでは否定しませんが、その値動きにいちいち理由を付けているのには違和感を覚えます。そのような理由よりは、投機マネーがどうシフトしたのか、と言う程度であって、投機マネーだけに決して一筋縄ではいかないことは、報道している人たち自身が一番知っているはずです。それなのに、もっともらしい話をこじつけているように見えてなりません。
5月に入って、爽やかな日が増えてきてはいますが、それでも低温が残っている日も混ざっています。身体がついていかないと感じるのは、筆者が高齢化してきているせいなのでしょうか。今日は、湿度が低く、とても気持ちよく感じます。梅雨に入る前、この天候を活かした生活をしたいものです。