災害の回避と責任の追及

2017 年 3 月 30 日

栃木県で起きた高等学校山岳部の雪崩に伴う遭難は、痛ましいことだと思います。どうしてこのようなことになってしまったのかを解明する必要性はあるとも感じています。しかし、この事故を報道する番組にどこか違和感を覚えています。現地の情報をまずありのままに伝えることが優先されるはずだと考えますが、報道機関が責任追及に傾いてしまっているように感じられるからです。確かに、報道機関の伝達姿勢が、災害回避に重点を置いていると、普段の天気予報の中でも感じていて、そのことは間違いではないと思います。ただ、今回の栃木県の雪崩事故に関しては、責任追及の姿勢が露骨すぎて、事実の伝え方が不十分だと感じました。この事故は悼むべきことではありますが、教育活動の一環の中で発生したものでもあることに配慮してほしいと思います。事故の報道を聞いて最初に思い浮かんだのは、「真白き富士の峰」に謳われている逗子開成中学校のボート遭難のことでした。そのように感じてしまったためだからかも知れませんが、亡くなった人をひたすら悼むという気持ちが報道の中に見つけにくかったのです。若い高校生が大量に遭難死することは、尋常なことではありません。ですから、責任問題を論じることもあって不思議ではありませんが、それ以上に悼む気持ちが強く出てくる報道であってほしいと思ったのです。
たまたま山岳小説と呼ばれる文庫本を読んでいたことも、違和感の原因かもしれません。遭難死を賛美するわけではありませんけれど、登山する人の心のどこかに、山と同化したいような思いがあるのだとすれば、単純に責任追及の方向だけには向かえない何かを感じるのです。生きて行くことが常に何かへの挑戦であるとしたら、山岳部を選択した高校生たちの心の動きを、もう少し汲んで、伝えてほしいのです。無事であることは常に願うことですが、その無事とは、何もしないことによって得られるようなものではないはずだからです。
亡くなられた方々を心から悼みます。悼む心を何より大切にしたいと思うのです。

野球かサッカーか

2017 年 3 月 29 日

今週末からプロ野球が開幕します。昨晩は、ワールドカップのアジア予選が行われ、会場の埼玉スタジアムはほぼ満席の観客を集めました。もう、スポーツは観戦することくらいしかかかわれませんが、この二つの競技の違いを考えながら、より深く楽しむようにしたいと思います。野球とサッカーの違いは、まず攻撃と守備とが交代に行われるかどうかの違いが大きいのです。野球であれば、攻撃の時にしか得点は得られません。相手に三つのアウトを与えて初めて、自分たちの攻撃の機会が得られます。一方、サッカーでは、相手が持っているボールを奪えば、その瞬間に攻撃が始まります。それは、相手にとっても同じことですから、自分のチームが得ているボールは大切にしてゴールを目指さなければなりません。テレビ観戦をしていて応援しているチームが相手に、まるでプレゼントのようなパスをしてしまうと、とてもがっかりします。その反対に、相手のボールを虎視眈々と奪おうとするプレーには、拍手を送りたいこともあります。そのうえ、ボールの奪い合いですから、ファールにならない範囲での頑張りが求められます。どこまでが許されるものか、その日の審判の判定基準などを見るのも楽しみの一つです。審判と言えば、野球もその通りです。微妙に個性が見られますが、お互いの選手が納得できる形になっているのは素晴らしいことです。審判の判定が覆る制度が導入され始めました。そのことは、誤審を防ぐためには大事なことですが、審判に対する敬意が薄らぐことの無いよう、運営には細心の注意が必要でしょう。野球の場合は、投手と打者との一対一の対決から始まります。その時すでに、相手に飲まれてしまっている選手を見かけることがあります。プロの選手であるなら、そのようになってしまってはいけない筈です。ところが、相手のバッターに飲まれてしまい、ストライクを投げられない、あるいは魅入られたように打ちやすい球を投げてしまう、という場面にも遭遇します。反対に、この投手が出てきたら、とても打てないと諦めてしまっている打者を見ることもあります。それでも、ほとんどの場合は、投手と打者が、なんとか相手を凌駕しようと対決します。その対決の中にプロの味を見ることが沢山あります。対決を面白くさせるためにも、審判の判定に揺れがあってはなりません。投手有利の判定が出されてしまうと、直後の打者の判断に動揺が見られることが多くあります。このような、一つ一つの積み重ねを面白く味わっていくことで、今年もゆっくりテレビ観戦するつもりでいます。サッカーは、より大きな試合に出場できるよう、これまた、テレビ観戦を続けることにしましょう。

国際試合

2017 年 3 月 27 日

今月は、野球のWBCの大会やサッカーのワールドカップアジア予選など、関心の高い国際試合が行われました。試合が始まると、自然にわが国を応援していますが、審判の裁定などにもとても関心を持ちます。中でも、野球の場合ビデオ判定が導入されたこともあって、試合の流れの中で適切に用いられているかどうか、などにも興味を惹かれました。ビデオ判定にはなじまない、投球に対するストライク、ボールの判定は、以前に比べれば枠の違いは小さくなってきているように感じました。それでも、時々「えっ」と思わされ判定がありましたが、この裁定に対して抗議してはいけない、という習慣が十分浸透していて、試合をつまらなくさせることはありませんでした。一番気になっていたのは、サッカーの試合がアウェーで行われたこともあって、どこかで地元有利の判定が出されてしまうのではないかと懼れていましたが、今回の試合に関しては、さいごまでそのような心配は無用でした。サッカー日本代表の主将を長い間努めてきた長谷部選手が故障のため出場できませんでしたが、代わりに代表に呼ばれた今野選手が、補って余りある活躍をしてくれたのは、応援していてもとても気持ちが良いことでした。ただ、この日の試合で故障してしまい、次のタイとの試合に出られないのは残念なことです。野球の敗因の一つとされる失策をおかしてしまった菊池選手が、そのあとの打席でホームランをたたき出したところは、身震いがするような感じでした。自分の責任を感じて、アドレナリン一杯のスイングをしたところは、鬼気迫るものがありました。たぶん、菊池選手自身、ホームラン一本で同点にしようなどとは思っていなかったことでしょう。それを実現してしまうのが、スポーツの面白さなのだと思います。サッカーでも、得点を挙げる選手以上に、ボールに触れられないところで献身しているプレーを見ると、胸が詰まります。
勝負ですから、勝つことも負けることもありますが、すっきりとした試合後の感想をこれからも持てるよう、選手も審判も頑張ってほしいものです。

森友学園問題も豊洲問題も

2017 年 3 月 24 日

昨日森友学園の籠池理事長が、国会に証人喚問されて衆参両院の予算委員会で質疑が行われました。結果として、理事長側の主張と首相の側の主張が全面的に対立する事項が明確になりました。当然と言えば当然ですが、首相の側は水掛け論的な話しなのだから、これ以上真実の求めようがない、だからこれで終わりなのだという姿勢です。しかし、考えてみれば、偽証罪を問われると判っている中で、100万円の寄付を受けたとする主張には、それなりの真実があるのではないかとも感じます。もっと深いところを掘り下げる検証ができないものかと思います。判りやすく言えば、昨日の国会喚問で残された矛盾点をどのように解決するのかが問われているにも拘わらず、政権側が幕を引こうとしている不自然さには怪しげなことを感じてしまうのです。それにしても、立場が違うと、こうまで真実を引き出す姿勢が違ってしまうのかと、各党の質問者の態度の違いにあきれました。少なくとも、今回の問題を、昨年TPP交渉を担当していた大臣のやめ方の嘘くささと同じにしてはいけないでしょう。豊洲問題にしても、いくつかの決断がなされた時の真相を解明すべきことであって、責任の追及はその次の話のはずです。ところが、真実を明らかにさせないまま、100条委員会の蒟蒻問答をしているだけでは、都民は納得できないのです。このような情勢のまま都議会議員選挙が行われると、全く予期していなかった結果となるかもしれません。
先日の本欄でも記しましたが、森友学園問題では、財務省の官僚が、相手に塩を送るような態度をとっています。一般にはあり得ないことです。このようなあり得ないことがどうして起きたのか、起きたことを平然と正当視して国会で答弁する鉄面皮はどこに由来しているのか、そこを追及してほしいと、筆者は強く思います。首相夫人から照会を受けたことが、このような結果になるのでしたら、それはとても許せないことだと思います。
アリバイ作りだけに終わらせることなく、真実の追及を続けなければいけません。

豊洲問題の解決の方向は

2017 年 3 月 22 日

東京都議会で、100条委員会が設けられ、この問題の解明のための証人喚問が行われました。全体を通じて、質問を行う側の掘り下げ方が不十分で、納得のいく説明がなされていなかったように感じました。都知事であった石原さんが、半ば居直ったような口ぶりで自説を述べていましたが、もっと核心に触れる質問をしてほしかったと思うのです。例えば、石原知事は前任の青島知事から、豊洲への市場移転が既定のものとして引き継いだと言いました。この豊洲は、そのまま東京ガスの跡地の意味なのか、もっと幅広く豊洲方面であったのか、ということを明確にしないと、既定路線とされていたことの内容がきわめてあいまいなことになってしまいます。豊洲方面が、すなわち、東京ガスの跡地だとしたら、食品を扱う市場の場所として最もふさわしくないところを選んでいたとして、青島時代を疑わなければならないでしょう。市場を跡地利用として考えにくい東京ガスの工場跡を選択したあたりに、うさん臭さの始まりがあるように感じます。その交渉の中で、東京ガスの瑕疵担保責任をきわめて限定的にしてしまったのは、東京都が裕福だったからなのでしょうか。しかし、跡地利用に当たっては、有害物質のチェックが極めて大切なことだと、当時も、売り手も買い手も認めていたのは事実でしょう。さして、多額の処理費を投入したにもかかわらず、青果物や鮮魚を扱うにはまだ、問題点が残っているとされ、専門家による会議の結論として、「盛土」を行うことで、有害物質は封じられるであろうとされたのでした。ところが、その専門家会議の指示を守らない形で、建屋が建設されてしまったのでした。このプロセスの不透明感は、都民一般が持ったはずです。専門家会議の指摘の内容とは異なる実行を誰が指示したのか、その結果としての地下水分析の問題など、一連の話を見えるようにしなければいけません。途中の判断ミスを目くらますかのように、安全なのだから早く豊洲に行くべきだ、とする元知事の説は、話のすり替えにしか聞こえてきません。
それにしても、もう少し丁寧なやりとりで、都民の前に少しでも多くの真実を明らかにし、そのうえで解決策を求めていくという英知が欲しいと、強く感じました。
明日の籠池氏の国会証人喚問も、なんだか肩すかしをくらわされそうな嫌な予感を持っています。

とんでもない話

2017 年 3 月 19 日

大阪で国有地が不当に安く売買された事件について、政治家の関与等が取りざたされていますけれど、もっと重大な問題があると筆者は感じています。それは、財務省の対応の問題です。国会の答弁で、証拠となる書類はすべて処分したと言い切っていますが、本当でしょうか。この答弁は、本当だったとすれば、公務員が実績に対する証拠の文書を正しく管理していないという問題になります。答弁が虚偽だとしたら、その虚偽であること自体とんでもない話ですけれど、虚偽の答弁をしてまでも隠そうとした内容に、決して公務員が行ってはいけない事実が含まれているのだと思われます。すなわち、国有財産の処分に当たって、廃棄物が埋設されていたから、これだけの額を減額します、という理屈は一見通りそうですけれど、入り口のところの廃棄物の埋設量評価などが大事なことであるにもかかわらず、証拠書類がないというのです。第一、減額するための根拠を国の側でしてあげることの不自然さを強く感じます。たしかに、首相の名前がちらちらする案件であれば、政治的には最も弱い財務省の官僚が靡いてしまうのは判りますけれど、やってはいけない一線を越えています。そのような不自然さを国会で答弁している人の心の卑しさが見えてしまいます。この隠蔽工作は、防衛省の問題よりはるかに大きいものです。というより、比較できないくらい、二つとも大きな問題なのです。政治家の名前がこのような形で使われてしまったことには、首相自体も反省しなければいけないでしょう。自分と思想が近いからと、現在の憲法を逸脱していこうとするグループに肩入れしていたこと、そのものに、首相の疚しさが見えてきます。
政治ゴロと、質の低い官僚との協調の結果、このようなとんでもない話が浮上しているのです。23日の国会での証人喚問には、ちょっと期待できません。なぜなら、この問題の本質に食い込んでいく野党の論理構成の甘さがあるからです。証拠書類はすでに処分されているとする答弁の入り口でもっと食い下がらなければいけません。権限を持った官僚であり、しらばくれて逃げようとしている官僚に、鉄槌を加える必要があるのです。

語るに落ちる

2017 年 3 月 16 日

国会の審議を聞いていて、お詫びして訂正すればそれで済むと思い込んでいる大臣の答弁を聞かされることはとても不愉快です。大阪の小学校の土地問題を発端とする質疑の中で、防衛大臣は、「理事長夫妻に対し弁護活動等はまったく行っていなかった」と答弁をした直ぐ翌日に、裁判所に出廷した証拠を突きつけられて、「私の記憶違いでした。お詫びして訂正します」と恥ずかしげもなく答弁しました。このことは、いくつかの課題を示しています。以前、首相は「やっていなかったことを証明せよと言われても、それは悪魔の証明と言われるものであって、お答えできるものではありません」と言い放ちました。今回の防衛大臣の答弁の変更は、この首相の居直りの裏返しのことです。すなわち、「ない。なかった」と言い続けていれば、言い逃れができるとたかを括った虚偽答弁だったのです。この虚偽答弁を強く裏付けるものとして、昨日の答弁の中で、質問者が理事長夫人の言葉を引用したことに対し、防衛大臣は、「いかにも夫人らしいエピソードですね」と思わず答弁しました。そのことは、防衛大臣が以前から理事長夫人と近い関係があったことを示しているのです。語るに落ちた、とはこの防衛大臣の発言のようなことを言うのでしょう。そのうえ、言い訳の仕方が、「自分の記憶に頼って断定したことが、結果として間違いだったので申し訳ありません」とは、国会をなめ切っている証拠です。首相は、このようないい加減さを放っておくどころか、庇おうとしています。この国会の現状を見ていると、もっと深い問題点があるのではないかと疑ってしまいます。自衛隊の隊員の方々は、この程度の人間に指揮されることを潔しとしないでしょう。口先だけでお詫びしても、国民を裏切った答弁をしてしまったことの罪は、防衛大臣が思っているよりはるかに重いものなのです。
大阪の国有地の安売り問題は、財務相、国交省も丸ごとはまっている重大な罪ですから、全体像を洗い出してほしいと願っています。小学校の認可申請を取り下げたからと、問題究明を停止させてはなりません。

不明朗な話

2017 年 3 月 13 日

大阪で起こった小学校新設に伴う国有地の売却問題は、小学校側がの認可申請を取り下げることで決着をつけようとしています。きわめて不明朗な話なのですが、事業が行われなくなるなら、もう誰も追及しないだろうとの考えのようです。しかし、どう考えても納得がいきません。財務省の役人が、手を差し伸べて書類を作成し、割り引く根拠の数値なども手取り足取りで導いていたのです。庶民にはこのような対応をするはずもない高級官僚が、へりくだって学校の理事長に仕えていたのです。その手続きが正規であったと国会で言い張っていましたが、そもそもそのような行動自体の異常さを役人は自覚すべきことなのです。手続きのある部分はたしかに正規ではあっても、そのようなことを公務員が積極的に行ったことが問題なのです。答弁を繰り返す役人の顔には、正しい意味での公僕の自覚が微塵も感じられませんでした。それにしても、このような大きな問題を、国会議員が正しく指摘できていないことも情けない話です。その事情は、ほとんどの国会議員が、自分たちの地位が持つ役人に対しての威圧性を当然視しているところに問題の源泉があるからなのだろうと筆者は思います。そのような感覚は、多くの場合政治ゴロとなってしまう理屈でもあります。予算を抜け目なく利用し、自分たちだけで利用しようとしている政治ゴロ集団が永田町にいるのです。睡眠障害を発症した元大臣も、今回話題になっている口利き疑惑の議員も、彼らが正しいこととして振る舞ってきた行動の原則の中に、国民を裏切る行いが含まれているのです。似たようなことで今話題になっている、東京都が市場を築地から豊洲に移転することも、誰かが地位を利用して、不透明な指示を行った結果のように見えます。東京都が裕福だからといって、安直に土地の購入工作をしたのだとしたら、許せないことです。特に食品を扱う場所を、汚染された土壌のところに求めた経緯には、不信感を覚えます。
権力を持つ人たちが、私利私欲、あるいは個人的な不条理を優先して行動してしまえば、世の中全体は信頼性など消えて行ってしまいます。今回の大阪の問題は、このような政治体質を改めるための大事な課題なのだと思います。小さな政局だけの話にせずに、政治家総てが襟を正すよう求めます。

あれから6年

2017 年 3 月 11 日

あの東北大震災の日から6年になります。帰宅難民になって、約40kmを歩いたことを思い出します。東京都から埼玉県に入るあたりまでは、歩道一杯に同じ境遇の人たちが一緒でした。荒川を渡ったあたりが中間点だったのかもしれません。次第に、地元の人たちの方が多くなって、疲労を感じながらも気力を失うことなく、歩き続けました。蕨市を抜けたころ、コンビニによって小さな菓子パンを求めました。少し力を付けなければ家まで到達できない、と思ったこともありましたが、革靴でしたから、足の裏にできた豆が痛み始めたので、休憩を取りたかってのもたしかでした。少しの休憩の後、歩き続けますが、痛みの出た足を引きずりながらでしたので、スマートとは言えなかったことでしょう。もう住んでいるのと同じ市内に入ってはいても、ここからまだ10km近く歩かなければなりません。周辺に帰宅のために頑張っている人はほとんどいなくなっていました。快活な若者が歩道を元気に歩いているのを見ると、地震があったことなどまるで関係ないかのようでした。そこで、JRの駅によって、タクシーの利用ができないかチェックしてみましたが、とても無理だと知らされました。またトボトボ歩きましたが、ちょうど金曜日でしたから、普段より遅い深夜バスが走っていそうだと知り、停留所で待っていました。すると、地元の方が、わざわざ車を止めて、乗りませんかと誘ってくれたのでした。家までもう2kmもない距離でしたが、この申し出は神の声でした。家の近くのバス停で降ろしてもらって、最後を歩きました。もう膝にも足首にも痛みが出始めていて、厳しい歩行でした。なんとか家にたどり着いたら、津波被害の惨状がテレビで報じられていて驚きました。
今振り返ると、あの帰宅できた時には、もう福島第一原子力発電所の過酷事故は起きてしまっていたのです。ところが、当時は、事故の過酷さを過小評価するテレビ報道でした。正直に伝えなかったことを糾弾しようとは思いませんけれど、あの事故の本質をもっと正しく報じ続けるべきだとは思います。数多くの方が犠牲になりました。少しでも被災された方たちに寄り添いたいと考え続けている筆者です。その立場で見ていると、政府の冷たさが気にかかります。被災者にとって、見捨てられ感はとても辛い思いなのです。報道陣も、そのことをもっと深く考えてほしいと強く思います。復興に向けて、国民一人一人が心を込めた行動をとりたいものです。
 

国有地の払い下げ

2017 年 3 月 9 日

今話題になっている森友学園の小学校の校舎建設用地は国から売却されたものです。その積算価格が妥当であったかどうか、国会の論戦を聞いていてとても違和感を覚えるところがあります。それは、このような国の所有地が民間に売却される経過が、庶民には見えて来ないからです。財政が厳しい国としては、利用することがない国有地を売却して、少しでも財政再建に役に立てたいと考えるのは当然のことでしょう。それならば、少しでも高く売却するための策が講じられるはずです。ところが、今回の学園への売却は、このような趣旨にのっとって事が進んでは来ていなかったと疑われることばかりなのです。お役人の側が、この価格で買ってくださいとディスカウントした経過のように聞こえます。それに、このような物件がどこにあって、いつ売却されるかという話は結構詐欺事件の場にもなるようです。国有地が安く買えるからと話を持ち掛けて、金だけ集めて溶かしてしまうような事件が後を絶たないと言われています。そのような動きをするのが、政治ゴロと呼ばれる、なんとなく政治に近い場所にいて怪しい話を持ち歩く輩です。今回の小学校の理事長がそのような人であるとは言いませんが、売却価格を下げさせるやり口などは、勝手知ったると言う怪しさを感じます。そのうえ、政治家を背景にしているようなそぶりをすることで、結果として、国の役人が売却価格を引き下げる書類を作成していたというのですから、庶民としては納得できない構図です。首相本人が口利きをしたとは言いませんが、この怪しげな理事長と近い関係にあったと思わせる話が聞こえてきます。その怪しげな話の延長に、この理事長がヘイトスピーチまがいの言葉を平然と口にしていることも伝えられます。
日本と言う国のどこかが壊され始めているような感じです。国会で議席数を勝ち取ればなんでもできる、という思い上がりが政権側にあって、それに近寄って甘い汁をすするとともに、世の中を悪くしていく輩がのさばり始めているのです。嗤ってしまうのは、この理事長が「民主主義」を口にしていたことでした。まったく自分の行動規範とは異なるのに、言い訳をするためにこのような言葉を使うのにはただ笑えました。
もう少しこの国がまともになって行ってほしいと思うのです。